雲仙・普賢岳噴火で被災した島原市で、市長として対策の陣頭指揮を執った鐘ヶ江管一さん(78)が、市長退任後に行ってきた防災講演が19日、1000回目を迎える。約16年間で国内外の10万人以上に災害の恐ろしさや命の大切さを語り続けてきた鐘ヶ江さんは、「続けられたのは、犠牲になった方々が見守ってくれているから」と話している。(篠原太)
鐘ヶ江さんが市長を務めたのは1980年から92年まで。3期目の90年11月に普賢岳が噴火した。
91年6月3日の大火砕流では、消防団員や報道陣ら43人が犠牲になった。この時、鐘ヶ江さんはその被災現場を視察予定だったが持病の座骨神経痛が悪化、急きょ病院に向かい、直後の火砕流から逃れた。
「『市民の生命と財産を守るように』と生かされた」。そう考え、「山が治まるまで」と願を掛けてひげをそらず、災害対策や復興対策に奔走。92年12月、市長退任の翌日にそり落としたひげは、28センチに伸びていた。
その直後から講演依頼が相次ぎ、93年1月に講演を開始。火砕流への戸惑いや、国内で初めて市街地を警戒区域に設定した時の苦悩など当時の体験をありのままに話し、「『自分には関係ない』と考えず、日頃の備えが大切」と訴えてきた。
講演は無償で、多い時は年100回以上。47都道府県すべてを回り、米ロサンゼルスでも行った。2006年8月、くも膜下出血で倒れ、20日間入院したが、リハビリで体調を整え、半年後には講演を再開。年5、6回のペースで続けている。
1000回目の講演は島原市の雲仙岳災害記念館で開かれ、東京から修学旅行で訪れる高校2年の約40人が聴講する。多くは大火砕流が起きた91年の生まれだ。
鐘ヶ江さんは今も頼まれれば、当時を思い起こさせる付けひげに防災服姿で演壇に立つ。「犠牲を無駄にしない」という使命感と、当時、全国から寄せられた義援金や激励への「お礼の気持ち」が講演活動の原動力。「被災体験が風化しつつある中、体力が続く限り、語り続けたい」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagasaki/news/20090218-OYT8T01111.htm