裁判員制度は誰の発案で、いつどのように決まったのだろうか?
「一概には言えない、難しい問題です。立場によって見方も違う」と語るのは、共同通信社の論説委員として「司法制度改革審議会」を傍聴し続けた土屋美明さんだ。土屋さんは「裁判員制度・刑事検討会」のメンバーとして「裁判員法」の原案策定にも携わった。
そもそもの発端は、どうやら「財界」だ。1994年、経済同友会は司法改革などを求める提言を発表。規制緩和や国際競争激化といった時代の変化に対応するため「民事裁判の迅速化や、法曹人口の増加を求める声が上がった」(土屋さん)。
一方で、80年代に相次いだ死刑再審無罪を背景に、陪・参審制度導入などを盛り込んだ「司法改革に関する宣言」を出していたのが日弁連だ。日弁連・司法改革調査室の工藤美香弁護士は「『司法が国民から乖離(かいり)しすぎている、きちんと機能していないんじゃないか』という立場から陪審制を主張していたんです」と説明する。
これらの動きを受け、小渕政権下の99年7月に設置されたのが、法律家や法曹3者、経営者や団体代表ら13人からなる「司法制度改革審議会」。検討課題には「国民の司法参加」が盛り込まれた。
ところが「刑事裁判への国民参加は、審議会の最初から強く想定されていたわけではないんです」と土屋さん。当初の議論は、民事司法の在り方の整備や、有能な弁護士をいかに多く育てるか、などを中心に進んだからだ。
また、「国民の司法参加」について、最高裁や検察、法務省は当初、消極的。前出の工藤弁護士は「『裁判官のみによる現在の裁判に問題はない』との強い自負の表れだったのではないでしょうか」と解説する。
しかし審議会の議論は次第に司法全体の構造を改革する方向へと広がり、「司法の国民的基盤を強くするためには、民事だけでなく刑事司法にも手を着けるべきではないのか」との議論へシフトしていったという。
裁判員制度実現へのポイントの1つは、2000年8月の「夏の集中審議」。委員が都内の施設に泊まり込み、非公開で議論した。所属先の公式見解ではなく、ホンネをぶつけ合ったことで、意見のとりまとめの土台ができあがったと見られている。
また、日弁連は同11月の臨時総会で、弁護士人口の増員を決めた。過当競争などが心配され、大紛糾の末の決定だったが、これが求めてきた「国民の司法参加実現」との“バーター”だったとの見方をする人もいる。
中には裁判員制度に反対する委員もいたが、審議会は01年6月、裁判員制度を提言する意見書を小泉純一郎首相(当時)に提出。政府は司法制度改革推進本部を設立し、裁判員制度・刑事検討会で裁判員法の原案が策定された。法案は衆院で全会一致、参院は2人の無所属議員が反対したが可決、04年5月21日に成立した。
ちなみに「裁判員」の言葉が生まれたのは01年1月、60回以上行われた審議会の第43回。参考人として意見を述べた松尾浩也東大名誉教授の“命名”だ。「(参審制でも陪審制でもない国民参加を)仮に裁判員と呼ばせていただく」。
◆福沢諭吉が“日本初提言”
○…日本で最初に陪審制度を提言した1人は福沢諭吉だという説がある。名著「西洋事情」で英国の陪審制を紹介。西南戦争では、薩摩軍を陪審裁判にかけることを提案したという。実はその後、大正デモクラシーを背景に、日本にも陪審制が導入されている。昭和になり、1928年から15年間で484件の陪審裁判が行われた。ところが制度上の不備などから、陪審裁判は年々減少。太平洋戦争に突入し、43年に「停止」となった。
(2009年2月18日06時01分 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090218-OHT1T00016.htm