三味線に合わせて日本髪の女性が舞う。赤、青、紫……。
色とりどりの着物姿の芸者8人がお酌をすると、客は浮世を忘れて夢心地になる。
今月8日。東京・品川区の料亭で開かれた宴席の中心に芸者置屋「まつ乃家」の女将(おかみ)、広瀬まりさん(46)はいた。
約30人の客の大半はインターネットで申し込んだ。この仕組みは、「一見(いちげん)さんお断り」というところの多い花柳界の敷居を低くしようと、広瀬さんが考えた。
この日、彼女の傍らには長女麻依可(まいか)さん(17)と長男で女形の永之介さん(22)の姿もあった。それぞれ三味線と日本舞踊の名取。若くとも芸者衆の一員として母を支える。
まつ乃家は品川区の南大井にある。羽田空港の北西に位置するこの地区は、かつての品川花柳界の中心地。大正時代には400人の芸者がいたという。時代は移って客は減ったが、それでも広瀬さんの子供時代には昼間から三味線の音が流れ、あでやかな雰囲気の芸者とよくすれ違った。芸者にあこがれたのは自然な成り行きだった、と彼女は言う。
12歳の時、呉服屋のカレンダーのモデルになった。撮影の際、髪結いの女性から花かんざしをそっと手渡された。
22歳で結婚し、永之介さんを出産した直後のこと。部屋の片隅の棚に置いていた花かんざしがふと目に入り、少女時代のあこがれがよみがえった。小唄や三味線の教室に通い始めたのはそれからだ。
初めてお座敷に上がったのは30歳の時。お座敷で踊り始めると、酔った客も息をのむ。その瞬間が好きになった。天職を得たと確信するのに時間はかからなかった。
区民検診で子宮頸(けい)がんと診断されたのは2003年秋。自分の命に限りあることを初めて意識した。
まつ乃家を始めたのは、この翌年。独立の夢を後押ししたのは皮肉にもがんだった。
さらに2年後からは「大宴会」と称する宴席を毎月設け、ネットでの客集めも始めた。この試みが回を重ね、軌道に乗ったと確信した頃に、またしてもがんと診断される。
07年夏。激しい腹痛に襲われ、病院に駆け込んだ。今度は末期の結腸がんだった。
20歳の時に父をがんで亡くしている。その父が出てくる夢を繰り返し見るようになった。夢の中の父は自分にこう語りかけてくる。「まりが『がん』だというのは、休ませようと思ってついたうそなんだよ」。それに「やっぱりねえ。うそだと思ったんだよね」と答える自分。目覚めて現実に戻る時がつらかった。
昨年9月、がんは肝臓にも転移した。道を継いでくれる子供2人に何かを残したい。そう考えた時、地元で40年余り前まで続いたという「勉強会」のことが頭をよぎった。
この地域の芸者衆が一堂に会して芸を披露した、年に一度のイベント。駆けだしの頃、往時の写真を見たことがある。数十人の芸者衆が、三味線を奏で、舞っていた。酒の出ない、芸だけの舞台。それは芸者たちが損得抜きで集う機会でもあった。
あれを復活させれば、地元花柳界が息を吹き返すかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。すぐに地元のホールを押さえ、ネットに案内を載せた。当日登場するのは、まつ乃家の芸者衆総勢12人。来年以降は、南大井全体の芸者を巻き込みたいと思っている。
投薬治療の影響で気分が悪くなる日も多い。大宴会の翌日は一日中寝込んでしまう。それでも4月4日のその日に備え、今も芸に磨きをかける。(加納昭彦)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090215-OYT1T00117.htm