2009年02月11日(水) 21時28分
非核三原則 直前まで迷った佐藤首相(産経新聞)
平成20年12月に公開された外交文書で、昭和40(1965)年に佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官との会談で、海上の核兵器持ち込みは容認する発言をしていたことが明らかになり、非核三原則が改めてクローズアップされた。佐藤首相が42年12月、小笠原諸島返還にあたって「核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず」と答弁したのが三原則の始まりで、後の沖縄返還でも適用された。歴代内閣が踏襲した三原則の中でも「持ち込ませず」は有名無実化しているとされ、核武装の是非をめぐる論議も残る。非核三原則表明の経緯を探り、その意義を検証する。(高橋昌之、阿比留瑠比、赤地真志帆)
■表明と懸念
昭和42年12月11日、衆院予算委員会。首相の佐藤栄作と社会党委員長の成田知巳との間で、小笠原諸島返還に際しての核の取り扱いをめぐり、緊迫した質疑が行われた。「従来の方針が変わったのか確認したい」と迫る成田に、佐藤は「本土は核の三原則、核を製造せず、持たない、持ち込みを許さない。(小笠原諸島も)その本土並みになる」と答弁した。成田が「大きな声を出さなくていい」と制するほど、佐藤は力を込めた。これが後に定着する「非核三原則」となった。
三原則は43年1月27日の施政方針演説にも盛り込まれたが、「持ち込ませず」については佐藤自身、直前まで迷った。26日の閣議。演説原案をめぐる議論は1時間にわたった。原案は「持ち込ませず」を盛り込んでいなかったが、運輸相の中曽根康弘らは「核保有せぬだけでなく、持ち込みなど非核三原則をはっきりと書くべきだ」と主張。自民党役員会も「非核三原則を強く打ち出すべきだ」との結論を出し、佐藤は同日午後に「持ち込ませず」を盛り込むことを決断した。首相秘書官だった楠田實は「楠田實日記」(中央公論新社)に「『保有せず』ですべてが尽きており、非核三原則はそもそもセンチメントの問題だから、施政方針演説に入れる必要はないはず。だが総理も、皆がそう言うならそうしようと折れる」と記している。
楠田は日記に「非核三原則が佐藤内閣の政策である限り問題はないが、国の政策になって縛られると、沖縄の交渉に大きな障害になる懸念もあった」とも書いている。演説終了後、自民党国対副委員長の竹下登が「非核三原則は評判がいい。社会党から国会決議にしようという提案があるが」と相談に来たが、楠田は「返事は保留してください」と答えた。
当時、外務省アメリカ局参事官(後に駐米大使)だった「世界平和研究所」理事長の大河原良雄(89)は「米国は小笠原には核兵器を配備していなかったと思われ、小笠原返還交渉の際には核の問題は交渉上の難点にならなかった。しかし、沖縄は米国にとって重要な軍事拠点で、三原則は返還交渉を難しくさせた」と解説する。
■決心
事実、44年から本格化した沖縄返還交渉では、核の取り扱いが最大の焦点になった。1月5日、帰国した駐米大使の下田武三は佐藤に「米国務省の意見は、これ(核抜き本土並み)では沖縄返還交渉は難しいという状況です」と報告した。佐藤は「まとまらんでもまとまっても『核抜き本土並み』でいかなければだめだ」と強く指示し、下田は「成否は別として最善を尽くします」と答えた。
しかし、佐藤は「核抜き本土並み」に踏み切れずにいたようにも見えた。30日の衆院代表質問で、社会党の成田が「沖縄返還では非核三原則を適用するか」とただしたのに対し、佐藤は「国内の議論も2つに分かれてきている。沖縄の米軍基地は将来本土並みになる保証さえあれば、返還実現が先決という意見。次は返還時期は遅れても核兵器は認めないという意見であります」と答えた。「早期返還なら核付き。核抜きなら返還は遅れる」という二者択一を掲げたのだ。
その佐藤も2月に入り腹を固めた。当時、外務省北米局長だった東郷文彦の著書「日米外交三十年」(中公文庫)によると、佐藤は東郷に「返還の形式は事前協議を含め本土並みという形をとりたい。どうしても問題が残るという場合は重大な決心をする」との意向を伝えたという。
そして3月10日の参院予算委員会。社会党の前川亘の質問に、佐藤は「核の持ち込みをするな、許すな、これが非核三原則だから、十分心得て(沖縄返還を)交渉したい」と述べた。ルビコン川を渡ったのだ。官房長官の保利茂もその後の記者会見で「返還後の沖縄には非核三原則が適用される」と明言した。佐藤が沖縄返還で非核三原則にこだわったのは、45年の日米安保条約改訂で「自動延長」を打ち出し、世論の理解を得るうえでも必要だったという側面がある。こうして、非核三原則は当初の佐藤の意思を超えて、政府の方針として根付いていった。
■返還合意
11月19日、佐藤は訪米して大統領のニクソンと会談、沖縄返還交渉はヤマ場を迎えた。共同声明では沖縄返還を打ち出す予定になっていたが、核の部分は事前折衝で詰められず、両首脳は複数の案をもって臨んだ。佐藤は声明案について「総理大臣は核兵器に対する日本国民の特殊な感情およびこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対して大統領は深い理解を示し、沖縄の返還を右の日本政府の政策に背馳(はいち)しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」というA案を提示。しかし、ニクソンの案には「緊急時において沖縄の米軍基地の機能を損なわない」との文言が入っていた。
このため、佐藤は「そのように表現することは非常に難しい」と、B案を示した。それは「…大統領は日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した」というものだった。ニクソンは「この表現なら米国民を納得させる用意がある」と同意。「重要な装備の変更の場合は事前協議を行う」という前提を盛り込むことで、日米双方が納得したのだ。
■見直し
47年5月、沖縄は日本に返還され、佐藤は49年12月10日、非核三原則の表明・堅持でノーベル平和賞を受賞した。記念講演で佐藤は「日本のいかなる政府のもとにおいても、この政策(非核三原則)が継承されてゆくことを信じて疑わない」と強調した。
その言葉通り、歴代内閣は非核三原則順守を表明してきた。しかし、三原則のうち「持ち込ませず」は、日本側が「事前協議がない以上、核は持ち込まれていない」との見解を示し、米国側は「軍事機密上、核兵器はあるともないとも言えない」とすることで成り立っている。
「日米間の了解の下、米海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本に寄港していた」という元駐日大使のライシャワーの発言などからすれば、日本に寄港する米艦船に核兵器が搭載されている可能性は否定できない。
世界平和研理事長の大河原は指摘する。
「米国の核抑止力に依存している以上、持ち込みも許さないというのは安全保障上、論理的にはおかしい。非核国家としてあり続けながらも『持ち込ませず』については見直しがあっていい」。
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