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2009年02月07日(土) 20時31分

実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん産経新聞

 静岡市役所近くの小さな雑居ビルにスナック「バロン」はあった。スキンヘッドの店主、植垣康博さん(60)は37年前の連合赤軍事件で、12人が殺害されたリンチ事件にかかわり、懲役20年の実刑判決を受けた。出所したのは平成10年10月。バロンは当時の彼のあだ名だ。取材について、「私は事件から逃げることはできませんから」と言い、半生を語り始めた。

 子供のころは鉱物や天文が好きな理系少年。鉱山の多い東北の土地柄にひかれて昭和42年、弘前大学理学部に入った。京大大学院への進学希望があったが、「物理学は核や原子力に協力してもよいのか」と全共闘に加わった。

 弘前大全共闘には「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインなどで知られる漫画家、安彦良和さん(61)もいた。このころまで植垣さんらは一般的なノンセクト活動家だった。

 理系の知識をかわれて「爆弾をつくってほしい」と頼まれたのが赤軍派とかかわるきっかけだった。「僕なんかマルクスもろくに知らない。むしろ右翼的な発想で『義を見てせざるは勇なきなり』という思いがあった」。上京して参加したデモで逮捕。拘置所で赤軍派の文書を読むうちに「これからはゲリラ戦」と考えるようになった。

 1年2カ月の獄中生活を経て、45年12月に保釈された。腹を決めて赤軍派兵士として、銀行を襲撃して闘争資金を調達する「M作戦」などに加わった。

 グアムで保護された元日本兵の横井庄一さんが「恥ずかしながら帰って参りました」と語ったのは47年2月。連赤事件はちょうどそのころ、46年末から翌年2月の出来事になる。

 連赤は、赤軍派の一部と革命左派(革左)という2つが合流してできた組織だった。事件は両派が新党結成のために群馬山中などで行った共同軍事訓練の中で起きた。赤軍は最高幹部の塩見孝也議長らが逮捕されており指揮官不在。中堅クラスだった森恒夫幹部=後に獄中自殺=がトップにいた。革命左派には、後に極刑判決を受ける永田洋子(63)と坂口弘(63)の両死刑囚がいた。

■技術が身を助けた

 山中に集まったのは両派の29人。ささいなことで不協和音が生じた。革左のメンバーが水筒を持っていなかったことを赤軍が「自覚が足りない」と指摘。逆に革左は赤軍の女性の化粧や指輪を問題視した。批判の矛先が次々とメンバーに向けられるなか、同志をリンチすることで「共産主義化を進める」という理屈が生み出された。「血」の総括の始まりだった。

 すでに3人が惨殺されてから合流した植垣さんは旧知の幹部、坂東国男容疑者(62)=後の超法規的措置で国外逃亡中=に「こんなことやっていいんですか」と言ったが「組織のためだ」といわれた。彼らにとって上の命令は絶対だった。その光景は凄惨(せいさん)そのものだった。「総括が足りない」同志をみなで殴り、柱に縛ってさらに殴り続けた。リンチ死した埋葬前の遺体を「敗北死だ」とさらに殴ったこともあった。

 植垣さんは会議が始まると、幹部から目をつけられないよう端に座るようにしたが、リンチが始まると前に出た。「よごれ仕事は僕のような兵士がすべきとも思っていた」。

 つい先ほどまで親しかった仲間を殴るとき、一体何を考えていたのか。植垣さんは少し間をおいてこう話した。「申し訳ない、という気持ち、ですよね。殴ったあとで柱に縛りつけながら小声で『すまない』と言ってみたり…」。一方で「問題を起こしたのだから殺されても仕方ない」という感覚もあったという。

 次々と仲間たちが殺されるなか、植垣さんはなぜ、リンチのターゲットにならなかったのか。「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」

■下手な反省はいらない

 植垣さんは命令で別動隊に入り、仲間と離れていたところを逮捕された。残ったメンバーはあさま山荘に10日間立てこもり、銃撃戦を繰り広げた。その様子はテレビで生中継され注目を集めたが、後の捜査で連続リンチが発覚。あまりの残酷さに学生運動が一気に消滅する要因になった。

 映画やドキュメントなどでいまなお注目される連合赤軍。平成20年に公開された映画「実録・連合赤軍」で連赤側の視線で事件を描いた若松孝二監督(72)は「集団があると権力者が生まれ、権力を握った人間はそれを守ろうと内向きに攻撃を始める。相撲部屋でリンチが起きたように、どんな組織にも起こりうることだと描きたかった」。

 植垣さんも「周囲がより厳しい状態に追い込むことで本人が成長できるという発想は、日本的なものかもしれない。社員教育や体育会にもそうした風潮はある。あのときは制裁ではなく、教育のためという考え方に陥っていた」と話す。

 平成17年、「バロン」のアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生(27)と結婚。今は3歳の息子と3人で暮らす。取材を受けたことについて「僕は当時、幹部じゃなくて、ただの兵士。だから連合赤軍の代表みたいな顔をして話すのはおかしい、と言われることもある。でも殺してしまった仲間への義理がある。事件を風化させないようにするのが僕の仕事と思っています」。

 リンチ死に追いやった仲間の遺族からは「下手な反省はしないでくれ」といわれた。「安易な謝罪をされたらたまらない。一生かけて考えてくれ」という意味だと受け止めている。

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