中日などの監督を務め、2日に死去していたことが分かった山内一弘氏は、現役最後の3年間を広島でプレーした。「打撃の職人」と呼ばれた独自の理論は、後に常勝カープを担う山本浩二や衣笠祥雄ら、当時の若手選手に大きな影響を与えた。
阪神から移籍1年目の1968年に打率3割1分3厘を残し、球団初のAクラス入りに貢献した。ともに主軸を張った山本一義氏は「山内さんが鉛入りシューズを履いて練習していた姿が忘れられない。カープを変えた人だ」と回想した。
7つの打撃タイトルを獲得した打撃理論は多くの若手野手に伝えられた。山本浩二前監督は入団3年目の71年に背番号8を山内さんから継承。「試合終了後に夜を徹して打撃を教えてもらったこともある。野球に熱い人だった」と惜しんだ。
現役引退後は82年秋、83年春季キャンプで臨時打撃コーチに就任。スイッチヒッター高橋慶彦のフォーム改造に着手し、4年連続20本塁打の打者に育て上げた。
広島では初めて2000安打した選手の獲得だった。松田元オーナーは「職人の打撃理論とともに、生活態度や食生活でも若手選手の模範となり、弱かったチームにプロたるものを教え込んでもらった」と悼んだ。