2009年02月01日(日) 22時31分
日米首脳の「謎の密談」その中身は…(産経新聞)
米国ではオバマ大統領が誕生し、米国発の世界的な金融危機の克服に向け精力的な取り組みに乗り出しています。外交スタッフにジョセフ・ナイ次期駐日大使をはじめ知日家を起用するなど、熟慮の跡が伺える人事を行っています。日本国内でくすぶる「オバマ政権=中国重視=日本軽視」との懸念を十分意識したかのような人事だからです。ただ、実際の外交はまったくの未知数で、軍事拡大、経済発展を続けてアジア太平洋地域での覇権を目指す中国に対し、米国はどう付き合っていくのかを今後、注視していかねばならないのはいうまでもありません。
さて、そんな中、ホワイトハウスをひっそりと後にしたブッシュ元大統領の日本側カウンター・パートだったのが、小泉純一郎元首相でした。前回は郵政解散を中心に小泉氏にまつわる内政上の問題や政局についてあれこれ書かせていただきました。今回は次期衆院選を機に政界引退を表明している小泉さんの対米外交について、取材メモをたぐりながら「斜め書き」したいと思います。
まず初めに、私は2001年4月下旬の小泉政権発足と機を同じくして米国から帰国し、政治部に復帰しました。以来、その大半を外務省や首相官邸を拠点に取材し、小泉政権の歩みを間近で見てきました。この経験から小泉外交というものを振り返ってみると、日米同盟を機軸とした外交を終始展開していた、というのが率直な感想です。
特に、ブッシュ大統領との個人的な信頼関係の構築は、何度も危うい局面にたたされた日米関係をしっかりと下支えしていたように思います。この首脳同士の親密な関係というのは、外務官僚が事前に大まかな会談内容をお膳立てしたとしても、その先は手を出せない領域であって、例えば日米関係でいえば、ブッシュ−小泉両首脳の親密な関係が、両国関係に与える影響は本当に大きなものだと実感させられることが何度もありました。
イラク戦争開戦から2カ月後の2003年5月のことでした。米テキサス州クロフォードにあるブッシュ大統領の私邸がある牧場で日米首脳会談が行われました。私は同行取材で現地に行ったのですが、小泉さんは大統領とプールサイドで通訳もつけずに2時間近く2人きりで話し込んでいるんですね。世界第1、2位の経済大国であり、イラク戦争をめぐって同盟関係を確認し合った首脳がいったい何を話していたのか。
公式会談ではなかったのでその中身は、実は今もってまったく明らかにはなっていませんが、プールサイドの密談に接し、第2次大戦前の1941年8月に英国のチャーチル首相と米国のF・D・ルーズベルト大統領が大西洋上で会談していたことをふと、思い出しました。
もう一つ具体的に思い出されるのは、イラク戦争の開戦直前の2003年3月18日、小泉さんが支持表明を行い、「日米同盟を磐石なものにするレールを敷くことに成功した」(麻生太郎首相)ことです。これは外務省も想定外のサプライズ表明で「どうすれば国際社会で日米同盟の存在感をアピールできるかを小泉さん特有の動物的な勘で判断した」のではないでしょうか。当時、知り合いの外務省高官が真顔でそう語っていました。
今や、北朝鮮へのテロ指定国家解除というブッシュ大統領の「背信行為」で拉致問題の解決を求める多くの日本人が失望させられていますが、それまでは「ペリー来航以来、最良の日米関係」(元外務事務次官)が続いていました。
ちなみに、私の友人である外務官僚の一人は、背信行為という受け止め方は間違いだといいます。日本が被るマイナスの影響と、テロ指定国家解除をテコに北朝鮮を動かすプラスの影響を天秤にかけた場合、明らかにプラスになるというのが彼の主張でしたが…。
話は戻りますが、少なくとも、対米外交における小泉首相の最大の功績は、ブッシュ大統領と個人的な親密関係をつくり、日米同盟をかつてないほど強固なものにしたといっても過言ではないでしょう。
しかしながら、小泉首相には確固とした外交哲学があったとは思えませんでした。小泉さんには大変失礼な言い方になりますが、滑り出しの対米関係は運と勘によるものだった、という気がします。ブッシュ大統領との個人的な関係を挙げましたが、日米同盟といっても、小泉首相が政権発足当初、その死活的な重要性を本当に理解していたのかについて、私はずっと疑問をもっていました。
確かに、首相就任約2カ月後の6月に、米ワシントン郊外のキャンプデービッドでブッシュ大統領と初会談し、キャッチボールなどをして親密な関係をアピールしてはいました。中国の江沢民元国家主席も宿泊できなかったクロフォードの牧場では、より親密な関係を演出していました。
しかし、イラク戦争に先立つ2001年9月11日の米中枢同時テロの際、小泉さんは、ロシアや中国に遅れ、発生から約2週間後の9月24日にようやくNYを訪問する立ち上がりの悪さを露呈しました。テロ特別措置法を成立させ、日本が同盟国であることを何とか態度で示すことができましたが、出遅れ感は否めませんでした。
2003年3月20日、イラク攻撃後のわずか1時間後、小泉氏は待ってましたとばかりに緊急記者会見を開き、「ブッシュ大統領の方針を支持する」と表明しました。先ほど少し触れた通り、事前のぶら下がり会見ですでに支持表明はしていたのですが、これまでは米国の対外武力行使について日本政府は「理解する」という表明が常だったことを考えれば、相当の決意を持った態度表明だったといえると思います。
2001年9月11日の米中枢同時テロで後手に回った教訓を生かしたのでしょうか。事前の国連での議論では、仏独両国があからさまにイラク戦争反対の意思表示をし、アフリカなど他の非常任理事国が右往左往していただけに、米国は小泉首相の決断を高く評価しました。大量破壊兵器が見つからなかったことを理由に「イラク戦争は間違いだった」、それを支持した小泉政権、日本の対応も間違いだったという批判があるのは承知していますが、少なくともあの時点では正しい判断だったと思います。
ちなみに、首相は当時、記者会見や国会答弁で「日本への攻撃を自国への攻撃とみなしてくれるのは米国だけ」と語り、支持表明の直前には政府関係者の誰もが思っていても口に出せなかったこと、すなわち「イラクでの支持表明が、北朝鮮有事での米国の日本支援につながる」と語っていました。
こうした経緯を踏まえ、2005年2月の日米安全保障協議委員会、通称2+2では、日米の大きな戦略目標として、「アジア太平洋地域での不透明性、不確実性が継続している」ことを確認しました。中国、北朝鮮の名指しこそ避けていますが、軍拡を続ける中国に対し、米国に明確に警戒の視線を向けさせました。
この年の11月15日、ブッシュた統領を京都に迎えた小泉首相は、日米関係の本質についてこう言及しました。「日米関係が良いからこそ、中国や韓国などアジア各国との関係も維持される」と。運と勘に頼ってきた小泉首相もここに来てようやく、日米同盟の死活的な重要性を皮膚感覚ではなく、外交戦略という国家百年の大計の中でしっかり認識できたといえるのではないでしょうか。
小泉首相の対米外交は場所でいえば、ワシントンのキャンプ・デービッドで始まり、京都で完結したといえるでしょう。この発言は少なくとも、近くで取材していた私が聞いた小泉首相の外交哲学、理念らしい最初で最後の言葉だったように思います。
ただ、こうした華やかな首脳外交の影で、政府も地道な努力を続けていたことを書き記しておきたいと思います。戦争に突き進む米国に対し、国際社会で日本はどう振る舞うのか。米国と違う側に立つ選択肢はもともと日本にはないのですが、戦争を支持する以上は国内外向けに大義名分は必要なわけです。それが国連決議の存在でした。
当時、私が取材した複数の政府関係者の証言を総合すると、イラク戦争の開戦約3カ月前の2002年12月ごろ、イラク攻撃の対応をめぐり米側は、日本が主体的に決定するよう要請しています。この際、日本に対しイラク戦争の戦費拠出は要求しない考えを示す一方で、日本による政治的な支持表明に強い期待感を示してきたといいます。
米側が、約130億ドルも拠出しながらほとんど評価されなかった湾岸戦争(1991年1月〜)における日本側の苦い教訓に配慮したものでした。
日米双方とも「小切手外交はしない」ことで一致していましたが、米側が日本に対し過大な期待を持たないよう自衛隊派遣には新法が必要だということを日本側は賢明に説明していました。このとき、日本政府内のコンセンサスは「戦後復興での自衛隊派遣」というものでした。
イラク戦争では、「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上兵力を)」(ローレス国防次官補代理)と日本への期待値が上がっていただけに、あくまで戦後復興での自衛隊派遣に止めておく必要があったからです。
2002年暮れから翌2003年初めは、イラクへの武力行使をめぐり、米国と仏独など一部欧州諸国の対立が激化していました。日本政府は、武力行使の可能性を示唆する国連の安保理決議1441(第1決議)に次いで、武力行使を含めた「あらゆる手段」を明確に容認する新たな決議(第2決議)の採択に向けた外交努力を続けていました。
その一方で政府は、仏独両国の反対が強いため、省議では、第2決議が採択できないまま米国がイラク攻撃に踏み切る公算が大きいと結論付け、決議が採択されない場合を想定して極秘に対応策の検討に着手しています。
国際法理論上の検討を進めた結果、法的には米国のイラク攻撃には第2決議どころか、第1決議も必要なく、湾岸戦争での武力行使を容認した決議678、その停戦条件を定めた決議687で十分と結論付けるに至ります。
政府は外交努力を続ける一方で、開戦に備えて周到に理論的な準備を整えていたことになります。そんな中、あえて第2決議の採択を目指したのは、米国を支持する際に国民を納得させる必要があり、そのためには「第2決議があった方が日本にとって政治的に望ましい」からでした。
日本政府がこうした理論構築を進める上で最も注意を払ったのは、問題の本質が「大量破壊兵器の拡散」であり、「国際社会の対応」が問われている点でした。米国には、「米国VSイラク」ではなく、「国際社会VSイラク」として国連安保理での外交努力をうながしていたのもこのためです。
米国支持の法的、政治的な根拠が整ったと判断した小泉さんは、外交当局が想定した開戦後ではなく、開戦直前の3月18日に米国支持を突然、表明したのはさきに触れた通りです。
その日の夜、小泉さんの発言を知ったアーミテージ国務副長官から、私の友人でもあった政府高官の一人にすぐさま電話がかかってきたといいます。
「うれしくて涙が出た。日米関係に長く携わって本当に良かった」
このように、イラク戦争開戦までの過程からは、国連安全保障理事会を舞台にした「平和」へ向けた外交努力を続けながら、開戦の意思を固めていた米国への支持表明のタイミングを水面下で計る−というきわどいかじ取りを強いられた外交当局者の苦悩が浮かび上がってきます。
イラク戦争が火ブタを切った2003年3月20日。
「危険な破壊兵器を危険な独裁者が持った場合の脅威を考えれば、米国への支持は日本の国益にかなう」
小泉純一郎首相は臨時の記者会見で北朝鮮情勢に触れた上で、米国支持の理由をこう説明しました。横にいた川口順子外相(当時)の記憶では、首相の手元にあったのはA4の紙がわずかに2枚。その後、記者会見の模様を川口さんに直接お聞きしたところ、日本が米国を支持する理由が大きな文字で数行ずつ、赤鉛筆で個条書きに書かれていただけだったといいます。
日米同盟と国際協調の両立を図りながら、最後は明確な米国支持を打ち出した小泉さん。その視線の先には、北朝鮮の脅威がありました。
本当は、日朝交渉の裏舞台についても、これまで書けなかった話を中心に紹介したいと思っていたのですが、今回は小泉政権下の対米関係だけにとどめ、北朝鮮と小泉政権については次回に回したいと思います。
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