昨年8月23日午前10時ごろ、東京都板橋区の団地の一角にある福祉事務所に、男が駆け込んできた。「弟の様子がおかしい」。警備員に促されて近くの交番に向かい、119番したが、弟は同日夕、搬送先の病院で死亡。男は傷害致死容疑で逮捕された。
男は当時45歳。両親を病気で亡くし、10年前から知的障害のある2歳年下の弟とこの団地で暮らしてきた。弟の面倒を見るため、仕事を辞めた。やがて、水道や電気を止められ、生活保護を受けるようになった。
放浪癖がある弟は22日の夕食後にいなくなり、翌朝戻ってきた。「財布から5000円を持ち出した」と言った。「それだけあれば何日生活できるんだ」。怒りで弟を引き倒し、頭を2、3回けった。弟はいびきをかいて、動かなくなった。くも膜下出血だった。
「お金を盗んだと正直に告白した弟に、被告は一方的に暴力を振るった」
12月11日、東京地裁。被告席に座る大塚一正被告に対し、東京地検の森田菜穂検事(36)は、懲役7年を求刑した。
大塚被告は罪を認めて反省していたが、森田検事が重視したのは、「被害者の声」を代弁できる人がいないという点だ。「被告の生活環境を過度に配慮し、『かわいそうな兄弟』という方向へ量刑判断が流れすぎてはいけないと思った」と振り返る。
求刑は、犯行に凶器を使っていないことや、被害者が身内であることなどを考慮した。懲役7年は、同様の傷害致死事件と比べても、平均的な求刑だという。
大塚被告の弁護人を務めた長沢彰弁護士(54)は、裁判で、弟を支え続けた被告の「10年間」に焦点を当てた。被告と15回の接見を重ねた際のメモを手がかりに、検察側が開示した警察官作成の調書の中から、被告の苦労ぶりを示す供述部分を抜粋して証拠提出した。
<弟が交通事故に遭い、職場を解雇された時は、社長に土下座して「辞めさせないで」と頼んだ>
<パンを万引きした時は、警察に身柄を引き取りに行った>
「寛大な判決を」
長沢弁護士は、最終弁論で訴えた。
適正な量刑とは——。裁判員制度で、裁判員はこの問題に直面する。今回の傷害致死のように、法定刑が懲役3年から20年まである場合、どれくらいの刑が適切か、見当がつかない人も多いだろう。
最高裁は類似事件の刑の重さをグラフなどで表示する「量刑検索システム」を開発。昨年4月以降にあった1000件以上の判決のデータを蓄積している。
三重弁護士会の伊藤誠基弁護士(55)は昨年7月、担当した殺人事件の被告について、弁護士として適当と考えた懲役の年数を法廷で述べた。裁判員制度を見据え、「裁判経験のない裁判員に、単に『寛大な刑を』と訴えても効果は薄い。なぜ検察の求刑は重すぎるのか、具体的に伝えた方が判断しやすい」と思ったためだ。
今月14日、大塚被告に東京地裁は懲役4年の実刑判決を言い渡した(確定)。長沢弁護士は「これからは被告に有利な情状を列挙するだけでなく、どうしてそれが刑を軽くする理由になるのかを丁寧に説明する必要がある」と語った。
「量刑判断に正解はなく、私たちも迷うことが多い。だからこそ、裁判員には思う存分、意見を述べてほしい」。あるベテラン裁判官の言葉だ。市民感覚が裁判に生かされる日はすぐそこに迫っている。(おわり)
(この連載は吉良敦岐、稲垣信、児玉浩太郎、淵上俊介、日比野健吾が担当しました)