パレスホテル10階「クラウンレストラン」内を、他のウエーターとは違う格好で歩く。ひざ下までの黒い前掛け、胸元には金色に輝くブドウのバッジ。不破貞夫(55)の肩書は「シェフ・ソムリエ」。1万5000本のワインを、知識と技術を駆使して提供するソムリエの責任者だ。
富山・高岡の和菓子屋に生まれ、幼いころから舌の肥えた子供だった。中学生になると、休みの度に上京し、都内のレストランを回った。フランス料理のコックになろうと、高卒後は大阪の調理師学校に通った。
百貨店の酒売り場を仲間と巡り、ワインを味見していた中で、ソムリエという仕事を知った。「酸っぱいのを我慢しているうちに、ワインのうまみに魅了された。専門職があるなら、なるしかないな、と思った」
仲間が持っていた「ワインの知識とサービス」という本を教科書に勉強。1973年(昭和48年)、その著者がソムリエを務めるパレスホテルに就職を決めた。
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その本の著者、浅田勝美(76)は、東京五輪を控えた64年(昭和39年)のクラウンレストランのオープン直前に入社していた。当時、どのレストランでも、出していたのはウイスキーの水割りやビールばかり。大阪から上京し、東京中のホテルを回って、自身を「ワイン担当に」と売り込んだ。断られ続ける中、受け入れてくれたのが、最後に訪れたパレスだった。
だが、入社後、ひとりでワイン、グラス、用具などあらゆるものを準備しなければならない。自分でも飲んだことがない5000本を買いそろえ、何とかオープンに間に合わせた。
オープンから1か月、浅田らは、前年までの年間売り上げの8倍のワインを売った。「日本初のソムリエ」は一目置かれる存在になり、他のホテルでもソムリエを置き始めた。
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それから約40年後。浅田にあこがれてパレスに入社した不破は、3代目のシェフ・ソムリエに就任した。
ある失敗の経験がある。男性客が食べているのはヒレステーキ。軽くさっぱりしたワインを勧めようと、思い当たる銘柄すべてを試飲してもらったが、男性は納得しない。結局、男性が選んだのは、料理に合うとは思えない甘いデザートワインと呼ばれるものだった。
その時、浅田の著書にあった一節を思い出した。「知識、技術、洞察力、包容力、人間関係の達人であること……」そのすべてを駆使して、客に楽しいと感じてもらうのが、ソムリエなのだ。それがなければ、知識など意味はない。
不破は昨年12月半ば、脳梗塞(こうそく)で倒れ、9日間入院した。まだ体調は回復しきっていないが、「ソムリエとは何なのか」を部下たちに伝えていきたい。来月からの職場である系列の宴会施設に移っても、その思いは変わらないと思う。(敬称略)