「情動刺激に対する統御能力が低い」「器質性異常はない」。昨年5月、大阪地裁の法廷に、精神医学の難解な用語が飛び交った。
歩道橋上から3歳の男児を投げ落とし、重傷を負わせたとして殺人未遂罪に問われた吉岡一郎被告(43)の公判。証言台には精神鑑定を行った精神科医が立っていた。
軽い知的障害があり、動機に不可解な点があることから、責任能力が争点だった。精神科医は、被告が心の中の葛藤(かっとう)を処理する能力に問題があると説明した。だが、専門用語の多さに、傍聴した男性は閉廷後、「ついていけない」と漏らした。
責任能力とは、善悪を判断し、つじつまの合った行動をする能力のことだ。責任能力がなければ無罪、著しく低下していれば刑が軽減される。ただ、見極めは難しく、鑑定結果に加え、犯行状況や動機などから総合的に判断するしかない。
吉岡被告の精神鑑定書は77ページに及び、責任能力は「著しく不十分」と指摘された。先月の判決は、この鑑定結果を踏まえ、懲役12年の求刑に対し、同5年6月とした(確定)。
昨年5月の公判を傍聴した男性には年末、裁判員候補者名簿への登録を知らせる通知が届いた。今年、裁判員になる可能性がある。責任能力が争いとなる裁判に遭遇したらと考えると、不安になる。「自分に適切な判断ができるだろうか。正直、自信がない」
裁判員制度に向け、責任能力の認定をわかりやすくする試みが始まっている。
東京地裁で先月25日開かれた母親殺害事件の公判。殺人罪に問われた八木田勝巳被告(43)について、起訴前に精神鑑定を行った帝京大医学部の南光進一郎教授(62)が証人出廷し、精神障害が犯行に与えた影響を証言した。同地裁は今月8日の判決で、被告の責任能力の著しい低下を認め、懲役10年の求刑に対して、同7年を言い渡した(確定)。
この裁判で証拠として提出された精神鑑定書は、わずか2ページ。診断名の「急性一過性精神病性障害」といった専門用語の説明を補足した別紙も9ページだった。
「従来の書き方をしていたら、30ページぐらいにはなっていたでしょう」と南光教授。今回は最高検の研究会が考案した書式に従い、〈1〉犯行当時の精神障害の有無〈2〉犯行に与えた影響〈3〉善悪の判断能力と行動する能力——の3項目に焦点を絞り、家族歴や問診時の様子などは徹底的に省いた。
南光教授は「鑑定書は分厚いほど立派な感じがしたものだが、不必要な要素も多かった。新たな精神鑑定書はまさに革命的」と前向きにとらえる。公判を受け持った東京地検の中村孝検事(46)は、「法廷で鑑定人に口頭で説明してもらうにしても、鑑定書はできるだけわかりやすい方がいい」と話す。
同地検は昨年4月から、中村検事ら2人を精神鑑定の担当に任命。鑑定人の過去の鑑定結果をデータベースにまとめた。責任能力が問題となる事件を担当する検事に、鑑定人を推薦して助言するとともに、精神科医との人脈づくりも進める。
男児投げ落とし事件で被告の主任弁護人だった池田直樹弁護士(60)ら大阪の弁護士グループは、知的障害者を弁護するマニュアル作りに乗り出した。障害の特性をわかりやすく示すため、審理の最初に被告人質問をしたり、裁判員の前で心理テストをしたりすることを検討する。
「法廷で被告のありのままの姿を見てもらえば、裁判員の戸惑いも解消されるのではないか」。池田弁護士はそう考えている。