半世紀近い歴史を持つ千代田区丸の内の「パレスホテル」が、今月31日を最後に、建物新築に向けた一時休館に入る。営業再開は2012年春の予定だ。しばしのお別れを前に、ホテルを支えてきた人たちの姿を紹介する。
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窓ガラスの向こうに皇居の森が広がり、脇に延びた内堀通りの先に東京タワーが頭をすっと伸ばしている。パレスホテル10階「クラウンレストラン」。白いテーブルクロスに、黄金色に輝くひと皿が置かれた。ふっくらとした肉厚の白身魚や、たっぷりかけられたソースからバターの香りが立ち上る。
フランス料理「舌平目のボンヌファム」。ホテルで「取締役シェフ」の肩書を持つ竹本敏明(62)は、この料理を作るたび「いつも緊張する」という。「バターに火を通す時間が長くても、短くても、香りや味は死んでしまう」
それは、技術的な難しさからだけではない。今も若い頃と同じように、師匠に一挙手一投足を見られていると感じるためだ。
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大阪・豊中の町工場を営む家に生まれた竹本は、中学生のころから忙しい母に代わって家族の食事を作った。「楽しい。これなら仕事として続けられる」。高卒後、父の知人のつてで、大阪のパレスホテル系列のレストランで働き始めた。
フランス料理など、食べたことも見たこともない。先輩のやることを何でも吸収しようと、無我夢中の毎日。手順を間違えれば足をけられ、包丁でたたかれもする。けれども、自分の洗った鍋を「うまい料理が作れそうだ」と褒められたり、鍋に付いたソースをなめながら先輩の味を盗んだりする時間は楽しかった。
竹本が本心から「この仕事を一生続けていこう」と決めたのは、20代の半ばに1年間、東京のパレスホテルで研修として働いた経験がきっかけだ。
厨房(ちゅうぼう)の空気が、大阪以上にぴりぴりと緊張していた。奥を見ると、腕を組み、20人近い料理人をじっとにらむようにして立つ人物がいた。初代シェフ、田中徳三郎。部下からは「ムッシュ」と呼ばれていた。
1899年(明治32年)に東京・芝の洋食店に生まれた田中は、13歳で料理の道に入った。1929年(昭和4年)に渡仏。帰国後は東京会館などに勤務し、61年(昭和36年)、開業とともにパレスホテルに移った。
東京研修の1年間、竹本はムッシュの助手として、付きっきりの生活を送った。そこで学んだムッシュの教えは「基本を守れ。そこから新たなものが生み出される」。基本から外れた無駄な動きをした時が、最も厳しくしかられたように思う。
竹本が正式に東京に移ったのは78年(昭和53年)。ムッシュがこの世から去った1年後だった。
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30年後、竹本は6代目シェフに就いた。今の肩書だ。腹の出始めた体で、館内にいくつもある厨房を走り回り、40人の部下を指揮して、宴会料理を入れると3000食以上を準備する日もある。
竹本が立つ厨房では、きょうもムッシュの料理が作られ続けている。田中から直接、薫陶を受けた人間も数えるほどになってしまったが、厨房の空気の緊張感も、あの人がいた頃と同じだ。
来月から、竹本は系列のホテルに籍を移すが、そこでも竹本は、ムッシュから教わったことを伝えていこうと思っている。(敬称略)