2009年01月20日(火) 17時16分
【神隠し公判4日目(14)】映し出される幼少時代の東城さん…嗚咽もれる法廷(産経新聞)
《法廷では東城瑠理香さんの母親の証人尋問が続いている。母親は検察官の質問に導かれる形で、犯行を知った前後の状況の説明に引き続き、東城さんの生い立ちを振り返り始めた。東城さんは長野県松代町(現長野市)で生まれた》
・元気なころの東城瑠理香さん
検察官「○○病院(実名)で生まれたのですね」
母「はい」
《大型モニターには、産声を上げた東城さんのかわいらしい写真が映し出される》
検察官「体重は」
母「非常に大きくて4200グラムありました」
検察官「髪の毛は」
母「たくさんありまして、真っ黒でした」
《モニターは生後3カ月の写真に切り替わる》
検察官「育児はどうでしたか」
母「大変ではありませんでした。夜泣きはせず、乳を飲むと寝ていました。○○(東城さんの姉)もかわいがって、寝ている瑠理香のところに行って『チュー』したり…。とても喜んでいました」
《昭和60年3月のひなまつりの写真が上映される。当時6カ月の東城さんを、姉が後ろで抱きかかえている。その後、1歳の誕生日の写真に切り替わる》
母「よろよろ歩きでしたけれど、歩いていましたし、言葉も片言でしたが話していました」
《大型モニターの写真は、近所の神社で写した七五三の写真になった。東城さんは当時2歳。3歳の姉をお祝いしたようだ》
検察官「姉が千歳飴を持っていますね。東城さんも赤い着物を着ていますが」
母「瑠理香も着物を着たいと言って着ていました」
検察官「奇麗な服が好きだったのですか」
母「はい。そうです」
《ウサギを抱えてピースサインした当時2歳の東城さん、3歳の誕生日を迎えた東城さん…。常に屈託のない笑顔を見せている》
検察官「ご主人は、祝い事はどうでしたか」
母「大好きでした。(祝いの言葉などを)ありとあらゆるものにつるしたり、絵を張ったり…。(記念日には)毎回、こういうことをしていました」
検察官「東城さんは重病を抱えたことがあったそうですね」
母「1度だけ。3歳の時です。盲腸で腹膜炎を起こして手術を受けました。医者は『あと少し遅れれば、死んでしまうかもしれない』と言っていました」
検察官「なぜ、発見が遅れたのですか」
母「我慢強い子で、朝になって『おなかが痛い』と言い出して、慌てて病院に行きました。おかげさまで治りました」
《東城さんに初めて妹ができたころの写真が映し出された。東城さん3姉妹は、いとこの姉妹とも、実の兄弟のように仲が良かったという。大型モニターには、小学校に通う4人が赤いランドセルを背負って並んだ写真が映し出された。二度と戻らない当時を思いだしたのだろうか。遺族席から嗚咽が漏れる》
検察官「(まだ小学校に通っていない)妹は写真に写っていませんが、けんかはありましたか」
母「瑠理香はけんかをしません。いつも優しい言葉で『皆でこれやろう』という。すると(皆がその通り)自然にやるようになります」
検察官「どんな存在でしたか」
母「いつも一目置かれる存在でした」
検察官「子供のころは?」
母「とにかく負けん気が強く努力家。周りを思いやる子でした」
検察官「鉄棒や竹馬が得意だとか」
母「とても得意でした。見えないところでコツコツと練習していました」
《モニターは、入学式の写真や教室の写真に切り替わる》
母「授業参観では後ろを見ずに、チョコチョコせず、安心してみていられました」
《写真は再び、七五三の場面に変わった。場所は有名な善光寺。妹が3歳になったときだという》
検察官「(この時には)外国人から声をかけられたそうですね」
母「『着物姿がかわいい』と言われ、写真を一緒に撮ってほしいとか言われました」
検察官「屋外に出かけることもありましたね」
母「夏はキャンプに行きました」
《東城さんが薪で遊んでいる写真が映し出される》
検察官「(3姉妹といとこの)5人は仲良くやっていましたか」
母「非常に仲が良かったです」
検察官「誰が中心でしたか」
母「いつも瑠理香でした。優しい口調で『これやってね』『これお願い』とやっていました。司令塔のようでした」
《法廷では、幸せな家族の風景が伝わる数々の写真が「スライドショー」のように映し出され続けた。母親は、気を取り直したのか、気丈に話し続けていた》
=(15)に続く
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