2009年01月17日(土) 18時24分
女性カメラマンがみた東大“落城” 山本義隆氏沈黙の訳 (産経新聞)
■捨てたエリートコース
《連帯を求めて孤立を恐れず。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫(くじ)けることを拒否する》
昭和43年秋。写真学校を卒業したばかりのフリーカメラマンだった渡辺眸(ひとみ)さん(66)は、バリケード封鎖された東京大学安田講堂の階段の踊り場に書かれた乱雑な落書きをカメラに収めた。
20代後半だった渡辺さんは当時、全共闘がバリケード占拠する安田講堂で唯一、内部撮影を許されていた。学生運動を被写体にしたのは、東京大学全共闘代表だった山本義隆さん(67)の友人だったことがきっかけだった。
東大院生だった山本さんは当時、京大のノーベル賞受賞者、湯川秀樹氏の研究室に通う気鋭の研究者。将来を嘱望されていたが、研究者としての栄達を捨て、学生運動に没入していた。
安田講堂では顔を撮影されることに抵抗感を持つ学生も多く、カメラを持った渡辺さんはすぐに全共闘メンバーからマークされた。山本さんはその都度「この人は大丈夫だ」と取りなし、疑われないように「全共闘」と書いた腕章も作ってくれたという。
山本さんはちょうど40年前、44年1月18、19日の機動隊との攻防戦を前に安田講堂から身を隠して潜伏生活に入る。後を引き継いだのは後に、医師として長野県などで地域医療にかかわり、社会党参院議員にもなる今井澄さんだった。
平成14年に62歳で亡くなった今井さんが5年に記した「全共闘私記」では「どうしても安田講堂に残ると主張した山本義隆氏らをのちの運動のことを考えて無理やり安田講堂から追い出したのは間違いだった。たとえ玉砕戦法と批判されようとも全員が残って戦うべきだったと思う」と振り返っている。
■何もつけくわえない
山本さんはその後、逮捕され、運動の終焉後は予備校の物理講師となった。暗記や受験テクニックに頼らないスタイルで「物理の根本を教えてくれる」と受験生たちの評判の名物講師となった。
今でも現役講師として教壇に立つ一方で、科学史の在野の研究者として、平成15年に著書「磁力と重力の発見」(みすず書房)で、「大佛次郎賞」を受賞するなどの業績も残しているが、こうした場面でも表舞台に出ることを好まない。在籍する駿台予備校によると、メディアからの取材依頼は今でも数多いが「全て断るように」といわれているという。
渡辺さんは一度、山本さんに「なぜ、取材を受けないのですか」とたずねたことがある。山本さんは「(マスコミに出ないと)決めたから」と答えただけだったという。
一方で、山本さんは全共闘運動と一切、縁を切ったわけではない。当時発行されたあまたのビラやパンフレットといった資料を丹念に収集し、平成4年に全23巻に上る東大闘争資料集をまとめている。昭和42年から44年にかけてのビラ、討論資料、大学当局文書など5000点以上を収録。平積みにすると高さ1メートルにもなる分量で、これらが系統立てて整理され、国立国会図書館に寄贈されている。
渡辺さんは言う。「あの時代に起きたことを後から評価することは簡単ですが、山本さんは、あのとき起きたことが全てでそれ以上付け加えることも、割り引くこともできないと思っているのかもしれない。資料集をまとめたことが、彼の全共闘運動に対する総括なのでしょう」。
■「舛添要一」
国立国会図書館で、資料集を開いた。ビラの一枚一枚が丁寧にコピーされ、百科事典のように綴じられ、赤い表紙がつけられていた。全共闘を支持するビラだけではなく、反対するもの、敵対視するものなどさまざまな訴えがあった。
昭和43年11月のビラをまとめた冊子を見ると「舛添要一」と署名の入った文書が目に入った。当時、東大に在学していた舛添厚生労働相(60)が書いたものだろうか。「我々は全学友に無期限スト解除を強く訴える」と非難する文章が書かれていた。
40年前の「安田講堂」とは何だったのか。渡辺さんが平成19年に出版した写真集「東大全共闘1968−1969」には、極めて珍しいことに山本さんが長文の寄稿をしており、「バリケード空間は恒常的に大学当局との緊張関係を作り出すとともに、学生のそれまでになかった新しい連帯の場を創出したのである」と記している。
当時の評価をめぐっては、現在も意見が分かれている。出版物としては2つの書籍が代表的で、警視庁の警備担当者として現場で指揮を執った佐々淳行氏は「東大落城」(平成4年)の中で「東大生の多くは学外に逃げた」と指摘。一方、今井さんと共に指揮をとり、その後、霊長類学者となった島泰三氏の著作「安田講堂1968−1969」(平成17年)では「安田講堂で戦った東大生も多く卑怯者のイメージは事実ではない。また、戦うには相応の理由があった」と強く反論している。
残念ながら、今回も山本さんは取材に応じなかったが、彼が今何と闘っているのか知りたい気がする。それは、安田講堂が落城する直前に行われた時計台放送で、次のようなメッセージが流されたからでもある。
「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を真に再開する日まで、一時この放送を中止します」
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