記事登録
2009年01月17日(土) 01時00分

体験語り「心の復興」/平塚の被災者・山内さんカナロコ

 一月十七日。特別な朝がまためぐってきた。一九九五年のこの日、六千四百人以上の犠牲者を出した阪神大震災。平塚市松風町に住む山内享子さん(47)は、夫、一人息子と暮らしていた神戸市内で被災した。黒煙の下に消えた命。深夜の避難所に届いたおにぎり。「生きる意味を見詰め直す日々でした」。きょう十七日で震災から十四年—。

 黒い喪服の女性が橋を渡る。焼け野原になった市街地に向かっていた。地震から数日後の光景を山内さんは忘れない。避難所で震えながら、誰もが悲しみを慰め合い、支え合っていた。

 山内さんは臨海の埋め立て地、ポートアイランドに住んでいた。午前五時四十六分、地震発生—。「ミキサーでかき回されたよう。家具がない部屋で救われた」。電気、水道、ガスは途絶。小学校の体育館に身を寄せた。二週間後、船で大阪に出て、寒川町の実家に戻った。

 被災地から、自らは逃れ出た。町の復興の様子はテレビで伝わった。だが、心は晴れなかった。

 離婚した友人がいる。あの揺れの瞬間、真っ先に部屋から逃げ出した夫がどうしても許せなかったと聞いた。自営の薬局を立て直すため、すがる思いで新興宗教にのめりこみ、ばらばらになった家族があった。

 「自分は逃げ場があっただけ幸せ」。そう思いながら、山内さんも気付けば、地震がなければ違ったはずの日を追っていた。「ゼロからの再出発。運命共同体から外れてしまった寂しさにも襲われた」。被災地の外は心のケアが十分でなく、日ごとに孤立感が深まった。

 被災体験を人前で話すようになったのは五年前から。地域のボランティアに頼まれた。「役立つと思えると負の体験が少しずつプラスに変わった。話すことがリハビリになった」

 防災標語のかるたを小学生と作った。「地震は大地を形づくってきた。怖いだけじゃない」。地元の名所・湘南平が大地の隆起で出来た様子を、絵本にした。文章を書いたのは大学三年生になった息子だった。小学校二年だった震災直後は、寝るときに部屋の明かりを消せなかった。「彼の心の復興を知りました」

 昨秋、夫と神戸を訪れた。息子が通った幼稚園は無くなっていたが、同じ場所に遊具が一つ残っていた。「町は壊れたが、自分たちが暮らした証しは残っていた。そう思えただけで、また区切りになった」と話す。

 十七日の朝、いつも通り仕事に向かう。あの日が普通の一日になりつつある。「そう思えるだけ自分は幸せ。まだ心の整理ができない人は、たくさんいるはずです」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090117-00000000-kana-l14