記事登録
2009年01月12日(月) 19時53分

【幻のドラえもん】(下)突然の最終回、セル画は河川敷で燃やされた産経新聞

 テレビ朝日系アニメ「ドラえもん」が始まる6年前の昭和48年、日本テレビ系でアニメ化された「日テレ版ドラえもん」は、半年間で頓挫した。直接の原因は、アニメを制作した「日本テレビ動画」の社長が突然、失踪して会社が消滅したことだった。

 「なぜ社長が消えたのか、今もって分かりません。ただ、前身の東京テレビ動画時代に金銭トラブルがあったと聞いています」

 日本テレビ動画でドラえもんの制作主任を務めた真佐美ジュンさん(63)はこう振り返る。同社は日本テレビとよく似た名だが、資本関係はなかったという。

 ドラえもんは日曜夜7時のゴールデンタイムに放送された。裏番組はアニメ「マジンガーZ」や「アップダウンクイズ」、三波伸介さん司会の「お笑いオンステージ」。ドラえもんの視聴率は今ひとつだった。

 第1クール(13回26話)が終わったところで、ドラえもんの声優が男声から女声へ異例の交代。原作にほとんど登場しないアヒルの「ガチャ子」をレギュラーにし、話の筋の「かき回し役」を担わせるなど大胆なてこ入れを行った。

 視聴率も持ち直し、5カ月目の48年8月には3クール目への続行も決まりかけ、真佐美さんたち制作会社スタッフはねぎらいのため、房総半島にある日本テレビの保養所へ招待された。その月の20日ごろ、社長が突然、行方不明になった。会社はなし崩しに解散した。

 ドラえもんは2クール(26回52話)で終了に追い込まれた。最終回の放送は、奇しくも会社が解散した9月30日だった。その夜、真佐美さんは後輩と2人で白いライトバンにカット袋1万袋分のセル画や台本、絵コンテ、カット表などを積み込み、実家に近い埼玉県浦和市(現さいたま市桜区)の荒川河川敷へ向かった。

 灯油をかけてすべてを焼いた。会社の解散で保管場所がなく、業者へ頼むと十数万円かかるためだった。炎の中で、片手を上げたドラえもんが、笑顔ののび太が、ぐにゃりとゆがみ、消えていった。「わが子を荼毘に付す気持ちでした」

 その場所は30年後、アゴヒゲアザラシのタマちゃんがやってきた辺りだった。

 会社消滅の中、わずか2週間で作った最終話は「さようならドラえもんの巻」。原作漫画で描かれたいくつかの「最終回」の中から、真佐美さんの提案で「自転車」の話が選ばれた。ドラえもんが未来へ帰らねばならなくなったため、のび太が猛練習をして自転車に乗れるようになる話だった。真佐美さんが幼いころ、板金塗装会社に勤めていた父親を浦和駅まで迎えに行きたくて、自転車を練習した思い出と重なったからだという。

 最終回のエンディングには、ドラえもんの丸い手から黄色い小鳥が飛び立っていくシーンを加えた。黄色に「再会」の意味を込めた。予告は「来週をお楽しみに」から「次回をお楽しみに」へ変えた。

 「藤子先生にあいさつに行ったら、『ぜひまたやろうよ』と言って握手してくれた。だから、6年後に現在のドラえもんが始まった時は、自分が関わることはなかったけれども文句のつけようのない出来で、このドラえもんならいいと安心しました」

 今年30年を迎えるテレビ朝日版ドラえもんは昭和59年4月に始まった。第1話は「ゆめの町ノビタランド」。新番組ならばドラえもんが登場する話から始めるのが一般的だろうが、まるで6年前の続き、「次回」のような始まり方だった。日テレ版を見ていた子供たちが戸惑わないようにとの、制作者の心遣いだったのかもしれない。

 真佐美さんはドラえもんを機にアニメの仕事を辞めた。会社消滅の際、支払いを心配する外注先に「もし皆さんに迷惑をかけたら、私が責任を取って業界から足を洗う」と一軒一軒、説得して歩いたにもかかわらず、結局は迷惑をかけてしまったことへの、真佐美さんのけじめだった。

 職業訓練校へ通い、自動車整備工になった。電装品の会社や解体会社、精密機器工場、民間車検場、板金会社と職を転々。最後は自営でトラック運転手になり59歳までハンドルを握った。傍ら、平成15年に会員制ホームページを立ち上げ、自らが保管するドラえもんの資料を公開。ファンの求めに応じてDVDの無料上映会を開くなど、忘れられた「日テレ版」の語り部を続けている。

 真佐美さんは言う。

 「制作会社が解散したためとはいえ、幻とまでいわれてしまったのは私にも責任がある。手元に残る資料を公開することで、幻ではない本当の姿を伝えたいのです」


 ※連載では、藤子不二雄ファンサークルマガジン『Neo Utopia』(43号、2006年)を参考にさせていただきました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090112-00000559-san-ent