人を裁くことは、犯罪者も含めた人々の「心の救済」を目指す宗教の立場と両立するか。国民が参加して有罪・無罪などを判断する裁判員制度が5月に始まるのを前に、宗教界で議論が起きている。同制度では死刑判決に関与することもあるだけに、宗教の社会へのかかわり方が問われている。
裁判員法では、「人を裁きたくない」というだけでは辞退理由にならないが、立法過程で「宗教上の理由で裁けない人もいる」という意見も出たため、「裁判参加で精神上の重大な不利益が生じる」と裁判官が判断した場合に限って、辞退が認められることになった。一方、刑事裁判への国民参加の伝統が長いイギリスやドイツでは、法律で聖職者は参加できない定めがある。
「裁判員制度にどう対応するのか。宗派としてメッセージを明らかにするべきではないか」。700万人の信者を抱え、刑務所や拘置所で教誨(きょうかい)師を務める僧侶も多い浄土真宗本願寺派。京都市の西本願寺で昨年10月に開かれた宗派の議会で質問が飛んだ。
浄土真宗では、「人間はだれでも罪を犯す可能性を持つ弱い存在」と説く。僧侶や信者には「そんな自分が他人を裁いていいのか」と抵抗感を持つ人も多いが、答弁に立った同派幹部は、「引き続き検討していく」と述べるにとどまった。
同じ浄土真宗で、死刑制度に反対している真宗大谷派(信者550万人)でも昨年6月、宗派の議会で裁判員制度が取り上げられた。幹部は宗派の見解として、制度そのものに対する意見表明は考えていないとする一方、「裁判員に選ばれたら、真宗門徒として死刑という判断はしないという態度が大切だと考えている」と答弁した。
禅宗の曹洞宗のある僧侶は、「人を裁くことはできないと思う一方、宗教者としての意見をしっかり述べることが大切という考え方もある」と悩む。
新約聖書に「人を裁いてはならない」というイエスの言葉があるキリスト教。全国で約800の教会を抱えるカトリック中央協議会は、「私的な裁きは認められないが、法治国家の正式な裁判制度まで否定はしていない。ただ、被告の人権への配慮や国民の十分な理解が必要だと思う」とする。
一方、東京都北区の神召(しんしょう)キリスト教会(プロテスタント)の山城(やまき)晴夫牧師(80)は「様々な考え方があり得るが、非常に重い問題で、すぐには答えが出ない」と話す。
全国約8万社の神社を指導する神社本庁は、「国民の義務として、裁判員に選ばれたら原則参加する」という立場だ。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081128-033595/news/20090111-OYT1T00020.htm