2009年01月11日(日) 20時29分
【震災14年】「20歳の桜子は…」 あの日逝った太陽のような少女(産経新聞)
太陽のような少女だった。神戸市東灘区の呉服商、加賀幸夫さん(74)の孫、桜子ちゃん=当時(6)=は14年前の阪神大震災で崩れた家の下敷きになり、短い生涯を閉じた。人なつっこく誰からも愛された女の子は、地震がなければその年の春に小学生となり、12日には成人式を迎えるはずだった。新品の学習机に座ることも、晴れ着に袖を通すこともかなわなかった。幸夫さんは「二十歳(はたち)の桜子なんて…。困ったな、ちょっと想像もつきません」。地震は一瞬で、家族の幸せを永遠に奪った。
「成人式用の着物のダイレクトメールが届くんです。業者からの電話もかかってきますしね」。母親の翠さん(53)は悲しいともくやしいともつかない、複雑な表情を浮かべた。
桜子ちゃんの父親がわりだった幸夫さんは、孫がまだ小さいころから、美しい草色の反物を成人式のために用意していた。着物に合う、桜柄の小さなバッグもあった。反物は知り合いの手に渡り、バッグは使われないまま、子供部屋にそっと置かれている。
あの日、激しい揺れで木造2階建ての自宅が倒壊。家族全員が生き埋めになった。ただ一人犠牲になった桜子ちゃんはいつものように、幸夫さんの隣で寝ていた。「じいちゃんくるしい」。すぐそばで小さな命が消えていくのが分かったが、身動きがとれず、どうすることもできなかった。
「私が殺しました」
幸夫さんは、自分を痛めつけるように言う。「もう少し若かったら、何としてでも助けたのに…」。14年間、全く薄れることのない罪の意識を抱えて生きてきた。
地震の前日、夕方に2人で留守番をしたのが最後の思い出。ひざにちょこんと乗ってきた桜子ちゃんと、クリスマスの話をした。「じいちゃんは悪い子だからプレゼントをもらえなかったんだよ」。そういうと、真剣な目で「ううん、じいちゃんは優しいよ」と言った。愛しくて愛しくてたまらない孫だった。
近所や幼稚園でも人気者だった。道で知っている人に会うと、必ずあいさつした。年少の園児に説教する園長先生に「そんなに怒らなくても」といって笑わせた。「街の太陽だった」「何であの子が」。そんな言葉も、悲しみを深くした。知人の孫自慢が何より辛いものになった。
地震がなければ、がれきに埋もれた新品の学習机で、毎日勉強するはずだった。二十歳になれば、お酒が大好きな幸夫さんに負けない“酒豪”ぶりを発揮したはずだった。将来は翠さんと同じ踊りの師匠になって、大舞台で華やかに舞うはずだった…。加賀家には、桜子ちゃんの死とともに永遠に奪われた数々の幸せが、深い悲しみとともに同居している。
幸夫さんには、二十歳の桜子ちゃんの姿が想像できない。成長した孫にかけたかった言葉も、見つからない。「むしろ、二十歳の桜子が何を言い出すかなと思います。『あんな着物が着たい』とかよくいう子でしたから。それと自動車の免許を取りたいと言い出したら、私が危ないからだめと言ってきっとけんかになったでしょうね」。
間もなく14回目の1月17日が巡ってくる。壊れた家は建て替え、区画整理を経た街も姿を変えた。地震後に生まれた翠さんの長男、亮くん(8)が大きくなった分、自分も年をとった。桜子ちゃんだけがいつまでも6歳の笑顔のまま、幸夫さんのまぶたに焼き付いている。
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