2009年01月11日(日) 21時26分
【幻のドラえもん】「アニメの手塚」の“子供”たちが手がけた(産経新聞)
テレビ朝日系アニメ「ドラえもん」が始まる6年前の昭和48年、日本テレビ系でアニメ化された「日テレ版ドラえもん」。制作会社のスタッフだった真佐美ジュンさん(63)は「漫画の神様」こと手塚治虫さんの秘書役を務めた。
【写真で見る】ドラえもんのセル画
真佐美さんは昭和20年の敗戦直後に埼玉県浦和市(現さいたま市)で生まれた。高校卒業後、坂本九のような歌手を志してビクター音楽学院へ通っていた20歳の時、新聞で手塚さんの会社「虫プロダクション」の求人広告を見つけた。芸能プロダクションと勘違いして応募。入社試験の段階でアニメ制作会社だと分かったが、面接で「健康か」「月に1〜2回、家に帰れないことがあるがいいか」と聞かれ、大丈夫ですと答えて入社した。
最初は「W3(ワンダースリー)」の制作に配属されたが、翌41年7月から1年弱の間、虫プロの社長室勤務を命じられた。社長である手塚さんの秘書役だった。
「手塚先生がいかに『神様』だったか。とにかく漫画を描くスピードですね」
連載の締め切りに追われ、漫画誌の編集者が3社、4社と別室で待機する中、同時並行で描いていく。
「描くといっても、木工さんが木を削っているようなカリカリ、カリカリという音が響いてきます。終わると静かになる」
手塚さんは当時40代半ば。睡眠は「月に8時間」といわれていたが、本当に3日くらい寝なかったという。旅館に缶詰になり、ふとんにもぐりこんで腹ばいになって目を近づけて描いた。カリカリ音が止まると、真佐美さんが隣室から「先生!」と声をかけて起こす。「ハイ!」と返事があり、カリカリ音が再開する。また止まる。「先生!」「ハイ!」
「終わるまで眠れないから、終わった時は10分くらい寝てもらおうと思う。でも、10分たたないうちに起きて、前よりもっとすごいスピードで描き始める。…これは見た人でないと分からないと思います」
勉強する暇などないはずなのに、何でも知っていた。映画もいつの間にか見ていた。アニメ「創世記」を制作した時は、「聖書を買ってきてくれ」と言われて新約聖書を買ってきたら「違う。旧約だ」と言われた。分厚い旧約聖書もいつの間にか読んでいて、はるか後年、遺作の「聖書物語」にも生かされた。
真佐美さんはその後、「リボンの騎士」の制作進行となり、「ふしぎなメルモ」では制作主任と演出助手を務めた。27歳で喫茶店の女の子と結婚した47年11月、アニメ制作会社「日本テレビ動画」から「ドラえもんという漫画をやってくれないか」と声がかかった。
チーフディレクターは真佐美さんの人脈から、虫プロ出身で後に「ニルスのふしぎな旅」で知られる上梨満雄さん。作画やトレース・彩色、音響といった外注先も虫プロ関係が多かった。真佐美さんは「のび太たちが通う小学校の設定は、虫プロのそばの小学校がモデルだった。スネ夫の家は明らかに手塚先生の自宅のイメージです。駅舎は虫プロの最寄り駅だった西武池袋線の富士見台の当時の駅舎でした」と振り返る。
「漫画の神様」は同時に、国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」を手がけたテレビアニメの父でもあった。「機動戦士ガンダム」で知られる富野由悠季さんや「銀河鉄道999」のりんたろうさん、「あしたのジョー」の出崎統さんらアニメ界の巨匠たちは虫プロを振り出しに世に出ていった。
昭和48年4月1日、「ドラえもん」は日本テレビ系列で全国放送が始まった。第1回は「出た!!ドラえもんの巻」と「ペコペコバッタ大騒動の巻」。作詞・藤子不二雄のコミカルな主題歌がお茶の間へ流れ込んだ。
♪ドタバタあんよはへんぺいそくだよ ハァ ヤッコラドッコイショのショ
鳴り物入りで始まった放送はしかし、半年で終了した。
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