1メートル80近いヨーコ・ゼッターランド(39)と並ぶと、1メートル64の母、堀江方(まさ)子(こ)(75)は小柄に見える。
1958年から60年にかけ、女子バレーボールの全日本代表チームで活躍した。五輪出場はかなわなかったが、引退後も今にいたるまで指導を続ける。「つらい練習や試合の敗北を乗り越えた経験が、人生を支えてくれている」と話す。
「世紀のご成婚」があった59年は、選手として最も充実していた20代半ば。米占領下の沖縄に遠征し、ビザ申請書に記す英語で苦労したが、現地の観客席は「本土からバレーチームが来た」と満員に。転戦した台湾からの帰国後、現地のファンから、あて名に所属クラブチーム名と「日本国 堀江方子様」とだけ記されたバナナの便が届いた。バナナが高価だった時代だ。
この年の4月10日、自宅のテレビでご成婚パレードを見た。「おとぎ話のプリンセスみたい。本当に平和な時代が来た」という思いに満たされたという。
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4人姉妹の末娘。父は中央区新富で新聞販売店を経営していた。
終戦後、中村高校(江東区)に入学。ボールは足りず、ネットはテニス用のものを校舎屋上の鉄柱にひっかけて使った。打ち損じてボールが転がると、1階まで駆け下りて拾わねばならなかった。しかし、相手の裏をかく作戦や連係プレーの楽しさに引き込まれ、セッターとして同校の対外試合49連勝の立役者となった。
卒業後は、同校OGらでつくるクラブチーム「中村クラブ」に所属。遠征費を知人らにカンパしてもらい、ユニホームも生地をもらってメンバーが縫い上げるなどしてやりくりした。
58年の中国遠征で全日本代表に。後に「東洋の魔女」と呼ばれた全日本の主将を務めた河西昌枝がチームメートだった。60年10月にブラジルで世界選手権が開かれた際には、後に河西らの監督となる大松博文がコーチとして選手をしごいた。
堀江は代表に選ばれたものの、ブラジルの試合では出番がなかった。「東京五輪が4年後に迫り、指導陣は『勝てる』チーム作りを優先したのだと思います」。1年後に引退。中村クラブの運営費の工面も難しくなり、堀江の引退と同時にクラブも解散した。
東京五輪では、仲間たちが「金」に輝いた。堀江はラジオの解説者として、報道席で快挙を見届けた。
引退後は美容師として働いた。35歳の時、スウェーデン人男性と結婚して渡米。一人娘のヨーコをもうける。6年後、母とともに日本に帰ったヨーコも中学から本格的にバレーを始めた。
日米両国の国籍を持っていたヨーコは早大を卒業した91年、米国籍を選んだ。実業団ではなく大学に進んだことで、日本では代表入りが難しい状況だった。五輪出場の可能性をかけ、米代表入りのテストを受けた。
翌92年、米代表チームの一員としてバルセロナ五輪に出場し、銅メダルを獲得。会場で観戦した堀江は、当時の心境を「娘の姿が、涙でかすんで見えなくなりました」と振り返る。
50歳の時、母校の中村高校バレーボール部のコーチに。地区予選で敗退を重ねていたチームを、4年間で2度インターハイに出場させた。早大でコーチを務めた時も、チームを6部リーグから2部の最上位にまで引き上げた。「人生を懸けられるものを、神様は二つは与えてくれない。バレーボール一筋で生きてこられたのは幸運でした」
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今、地域の子どもやママさんバレーの指導に汗を流す。「ただ立っていると10分で疲れるのに、コートだと1時間でも2時間でも平気」と笑う。
30歳で引退したヨーコも、スポーツキャスターを務める傍ら、各地の子どもバレー教室で競技の楽しさを伝え続けている。「私の域にはまだまだね」と冗談めかす母に、娘は「またバレーの話になっちゃった」と笑いかけた。(敬称略)