「池田山のお嬢様が皇室に嫁がれる」。1959年4月、品川区五反田の関東逓信病院(当時)の保健師だった清水嘉与子(73)は、勤め先に近い住宅地に暮らしていた同世代の女性のご成婚に胸躍らせた。閑静なその一帯は「池田山」と呼ばれてきた。
パレードの日、看護婦長は休暇を取り、カメラ持参で出かけて行った。清水は病院で同僚たちと一緒にテレビ画面に見入った。「幼い頃は天皇陛下のお写真を見ることもはばかられた。皇室と国民の橋渡しのお役目を担われる女性なのだ」。新時代の幕開けを予感した。
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看護の世界とかかわって50年以上。厚生省課長や自民党の参議院議員も経験した。看護師のための病院内保育所の整備、結婚などで退職した看護師の現場復帰を助ける「ナース・バンク」創設、男性も保健師になれるよう保健婦助産婦看護婦法改正を議員提案——。
「看護職場の改善には根気が必要。男性議員をうまく味方にしながらね」
東京で工場を経営する父と専業主婦の母のもと、4人きょうだいの末っ子として育った。「仕事を持ちたい」と、東大医学部に設立されて間もない衛生看護学科へ。女子ボート部をつくるなど学生生活を楽しんだ。
ご成婚前年に病院に就職。保健師として妊産婦や生活習慣病患者への指導にあたった。看護婦長時代の68年、助手として大学に戻った。
当時は学生紛争のただ中。授業はヘルメット姿の学生やバリケードに阻まれた。同僚宅に集まり、海外の文献を読むなど勉強を重ねた。
看護師は「使いやすい単純労働者」という扱いを受けることが多かった。70年、厚生省から「看護師の処遇改善にあたってほしい」と請われ、医務局保健婦係長に就いた。
実情を知らない男性官僚を病院に連れて行って説明し、夜中まで書類を作成した。予算折衝や国会の開会期間中は、長机の書類をよけ、その上で眠った。
役所では看護専門学校に補助金を支給するなどの実績を残した一方、「課を超えた仕事ができない」と痛感。引退する参院議員の後を継ぐ形で86年の選挙に初出馬したが、比例選名簿で25人中23位。次点だった。
時代が昭和から平成に移った89年、「マドンナ旋風」が吹いた都議選直後の参院選に再挑戦。比例名簿1位で、政界入りを果たした。
20年以上の親交がある日本看護連盟会長の見藤(みとう)隆子(76)は「政治家には珍しく、できないことはできないと言うタイプ」と話す。
見藤が日本看護協会長だった95年ごろ、准看護師の養成をやめ、資格を正看護師に統一するよう政府に求めたことがあった。「私はできると思ったが、清水さんは『これからが大変よ』と冷静だった」という。結局、清水の予測通り、「人材確保に支障が出る」とする日本医師会の反対で、要請は実現しなかった。
清水は99年、小渕内閣で環境庁長官に就任、2000年の循環型社会形成推進基本法を成立させた。「飲みながら物事が決まることもある男社会になじむため、お酒も強くなりました」
横浜市立大の看護短期大学部で教べんを取り、現在は原子力安全研究協会参与の松原純子(73)は「清水さんとは戦友」。男性議員を“女性シンパ”にするため一緒に食事会を開いたこともあった。
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清水が社会に出ようとした当時、頭に浮かんだのは「看護職か教職しかなかった」。いま、女性の活躍の場の選択肢は格段に増えたが、「職場に、もっと女性の働きやすさという視点があったら」と願う。
2007年7月、3期18年務めた国会議員を引退。「仕事にかまけていたら、結婚する暇もなかった」と笑う。今も、財団法人日本訪問看護振興財団(渋谷区)の理事長として在宅介護の充実に取り組み、自宅マンションの管理組合理事長も引き受けるなど、公私ともに多忙な日々だ。
「いろんな立場の人の意見を聞くのは政治に似ている。すごく近くに有権者がいるみたい」。パソコンのメールを忙しくチェックしながら話した。(敬称略)