ご成婚パレードは、舅(しゅうと)がこの日のために買った嫁ぎ先のテレビの前に、一家全員が集合して見た。広島市内の同じ敷地に住む夫と義父母、義弟の家族たち。1959年4月10日、「長男の嫁」だった佐藤早苗(74)は男の子を抱き、次の子を身ごもっていた。
「なんて美しくて高貴なお方」と同い年のプリンセスに目を奪われつつ、「気軽にお友達とお茶に出かける一般女性の楽しみから離れてしまわれ、お苦労も多いはず」と思いを巡らした。
自身は当時、幼時から親しんだ絵画制作を結婚後も続けていることに、大家族の中で肩身の狭い思いを抱き続けていた。
世間では少しずつ核家族が増え始めていた、と記憶している。「女性の意識が変わり始めた、とも言われた時代でしたが、私は実感できませんでした」
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英字紙記者などを務めた父が1940年に召集され、東京から父の実家の広島県福山市に疎開。復員した父は地元で中学教師となった。佐藤のほかに2人の弟も抱え、生活は困窮。それでも、放課後に教え子が集まって父と演劇論を語るなど、家は活気に満ちていた。
父は娘にパステルクレヨンやバイオリンを与えた。美術コンクールで入賞を重ね、時には髪を赤く染めて広島大付属高に通った姉を、弟の鉄夫(70)は「自分の芸術スタイルを持った人だった」と語る。
東京の女子美大(現・神奈川県相模原市)に進学。20歳で、東京芸大大学院を修了したピアニストの男性と結婚した。広島の夫の実家に入り、家事と育児に追われた。
日本が東京五輪に沸いた64年、夫と幼子2人とともにドイツへ。水入らずの幸福な日々は、長くは続かなかった。日本でソリストとして知られた夫は、海外で多くの新進ピアニストに出会ううち、弱気な発言を漏らすなど急速に自信を失っていった。同年12月に帰国、直後に夫は急死した。
夫の死後、嫁ぎ先でいたたまれない思いが募った。「自分らしく生きたい」。長男を自分の実家に、次男を夫の実家に預けて上京、一人の暮らしを始めた。子供向けの絵画教室を開き、スポーツ紙や雑誌に文章と絵を掲載するなどして生計を立てた。
転機は、上京から約5年たった72年。女性の新人ライターを探していた編集者の目にとまり、最初の著作「誰も書かなかった韓国」を出版した。戒厳令下の韓国で軟禁中の金大中(キムデジュン)氏と会見するなど長期の単独取材を敢行した労作だった。
79年には、東條英機元首相の妻で当時88歳だった勝子と出会う。取材を重ね、87年には勝子の半生、95年には東條の手記をまとめた著作を世に問うた。
佐藤は「父から、A級戦犯を取り上げるのは世間の反発を招くと心配された」と話すが、高校の同級生で元アサヒビール副社長の丹下宏文(74)は「先入観を持たず、困難な分野に飛び込める才覚を持った女性」と評価する。
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息子たちはそれぞれ、照明技師、会社員として自立。佐藤は25年前、小学校時代の同級生と再婚した。
励まし続けてくれた父を18年前にみとった。80歳。「自分がアルツハイマーに無知で、病気だと思わずうまく対応できなかった」という悔いから、晩年の父との関係や病気の様子をつづった本を1994年に出版。昨年は、特攻隊員の遺書や婚約者だった女性の証言に、現在の国際情勢を盛り込んだ著作を出版した。
江東区の高層マンションで暮らす。上京して40年余、賃貸契約の更新のたびに都内で引っ越しを繰り返している。築地、浅草、目黒、荻窪——。今のマンションも、ついの住み家と決めたわけではない。
「いろんな街を見たいという好奇心が強いの。仕事も、埋もれた事実を発掘するのが楽しい。体が動く限り、ノンフィクションにこだわりたいわ」。窓の外の運河をみやった。(敬称略)