「あの耳鼻科に入院されてらっしゃったでしょ」。生物学者の中村桂子(73)が、ほほ笑まれた皇后さまから声をかけられた。数年前、専門分野に関する懇談のため御所に上がった際のことだ。
小学生時代に日本橋の耳鼻科に入院したことを雑誌か何かに書いた記憶がある。その病院に皇后さまも同時期、通われていたというのだ。診察がお嫌いだった、おばあさまが病院から連れ出して下さった——お話で、雰囲気がぐっと和らいだ。
中村は、自分のささいな記事を覚えていてくださったことに「聡明(そうめい)さとこまやかな心遣いを兼ね備えられたお方」と恐縮して語る。
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東京・四谷の会社員宅に生まれた中村は、5人きょうだいの2番目。少女時代は「いろんなことに興味があった」。カエル捕りや編み物のまねを楽しみ、「源平盛衰記」を原文で何度も読み返した。
高校時代、国連職員にあこがれたが、周囲は「女に外交官は無理」。化学の女性教師から「大学を受けるなら東大を」と勧められ、「知的で凛(りん)とした女性になりたい」と受験。合格し、理学部に進んだ。500人の同級生で女子学生は3人だった。
「科学者志望というわけではなかった」が、大学3年の時、大きな“出会い”を経験する。英米の研究者がDNAの2重らせん構造を発表し、授業で模型を作った。ドレス姿のハリウッド女優が、らせん階段を下りてくるさまに映った。「こんなに美しい物質が地球上の全生物の体内にあるなんて」と心を奪われた。
男子学生が次々に就職先を決めるのを見ても、心は決まっていた。研究者として生きよう。「同じDNAという一つの物質を起源としながら、ミミズがミミズになり、人間が人間になる。これってすごいでしょ」
ご成婚パレードをテレビで見た1959年4月、大学院に。当時、DNA研究はマイナーな分野で、「金にならない」と実験設備も十分に与えられなかった。
先輩だったDNAチップ研究所(横浜市)社長の松原謙一(74)は、中村がDNA量の測定機器を使い過ぎて故障させ、教授にしかられて泣く姿を見た。松原は「彼女は、DNA研究が生物の多くの謎を解き明かすという強い信念を持っていた」と語る。
28歳で国立予防衛生研究所の研究員となり、大学の同級生で八幡製鉄所に勤めていた正和(72)と結婚した。30歳で長女が生まれると、育児に専念するため研究所を退職。5年間、研究の一線を離れることになる。この間、長男が誕生した。
中村が退職した1960年代、世間では、女子学生が大学を“花嫁学校”としてしか考えていないなどとする「女子大生亡国論」が話題になっていた。中村にとって職場からの離脱は冒険だったが、「子育てで、命の不思議に改めて気づかされた。研究者として必要な時期だった」と振り返る。
71年、設立間もない「三菱化学生命科学研究所」(町田市)の研究員として復帰。35歳。公害が社会問題化し、遺伝子組み換え技術も生まれ、「生物が機械のように扱われている」という懸念を強くしていた。
「生物誕生から38億年の歴史を、DNA研究の成果を生かして分かりやすく伝えたい」。55歳の時、長年の願いを結実させた「生命誌」という分野を提唱。「ようやく研究者として大人になれたと感じました」
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生命誌の研究を発展させ、2002年には「JT生命誌研究館」(大阪府高槻市)の館長に就任した。鉄鋼マンの夫は「昔、DNA研究がこんなに盛んになるとは想像しなかった。妻は先見の明があったよ」と笑う。
今、子供たちへの農業教育指導に力を入れ、「源氏物語」に関して講演するなど、少女時代の旺盛な知的好奇心は健在だ。
「豊かな感性を誇った紫式部の子孫として、日本の女性たちは命や自然の大切さを訴えていってほしいですね」。東京・世田谷の自宅で、愛用の薪(まき)ストーブの炎を見つめた。(敬称略)