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2009年01月04日(日) 00時00分

裁判員制度を巡る動き読売新聞

1990年代後半 バブル崩壊後、債権回収などに関する民事裁判手続きに時間がかかることが問題化。特に経済界から、裁判迅速化や法曹人口増を求める声が強まった

97年6月 自民党が司法制度特別調査会を設置

法曹人口増や民事訴訟改革が同調査会の主要テーマだったが、翌年6月に発表した「21世紀の司法の確かな指針」には、「司法への国民参加の在り方について、広く議論される必要があろう」との一文が盛り込まれた

97年12月 小学2年の片山隼君をひいて死亡させたダンプカー運転手を東京地検が不起訴処分に

処分理由すら説明されなかった両親が再捜査を求めて約24万人分の署名を集め、刑事司法手続きの不透明さに批判が集中。運転手はその後起訴された

99年7月 政府が司法制度改革審議会を設置

 司法制度全般を見直す同審議会の検討項目の一つに、「国民の司法参加」が盛り込まれた

2000年9月 最高裁が同審議会の場で「評決権のない参審制」を提案

国民参加に後ろ向きと見られていた最高裁が、評決権を与えない形とはいえ国民参加を容認する姿勢を示したことで、同審議会は同月中に、国民参加を事実上決定するペーパーを取りまとめた

01年1月 松尾浩也・東大名誉教授が「裁判員」の名称を初めて使う

同審議会で参考人として意見を述べた松尾名誉教授が、「参加した国民について、仮に裁判員という言葉を使わせていただきますと……」と発言。その後、新制度の名称に

01年2月 福岡地検次席検事(当時)が、福岡高裁判事(同)に捜査情報を漏えいしていたことが発覚

法曹同士のなれ合いとも言える不祥事が明らかになったことで、司法に国民の目が入る必要性が指摘された

01年6月 同審議会が最終意見書を小泉首相に提出

事件ごとに無作為で裁判員を選び、裁判官と一緒に議論して判決を出すという裁判員制度の大枠が、この意見書で決まった

02年2月 政府の司法制度改革推進本部の「裁判員制度・刑事検討会」が議論を開始

同検討会は制度を法案化するための作業を委ねられたが、裁判員と裁判官の人数構成をどうするかが最大の論点に。裁判所などは「裁判員は裁判官と同数程度」、弁護士会は「裁判員をはるかに多くするべきだ」と主張し、激しく対立した

03年7月 裁判迅速化法が成立

1審判決を2年以内に出すことが目標として定められた

04年1月 「原則は裁判官3人、裁判員6人」とすることで与党が合意

人数構成を巡っては、自民・公明両党でも意見が対立した。最終的に合意したが、公明党の主張を取り入れ、「被告が罪を認めたケースでは裁判官1人、裁判員4人も可能とする」との例外も設けられた

04年2月 オウム真理教の松本智津夫死刑囚に対し、東京地裁が死刑判決

審理期間は7年10か月、公判回数は257回に上った

04年5月 裁判員法成立

通常国会では守秘義務に関する罰則を緩和する修正などが行われたものの、最終的には与野党がすべて賛成して法案が成立した

05年11月 裁判の争点を絞り、迅速な審理をするための公判前整理手続きが始まる

08年1月 裁判員の辞退理由を定めた政令が公布される

08年8月 09年の裁判員候補者名簿に登録される人が約29万5000人に決定

08年11月 名簿登録された候補者に最高裁が通知書を発送

09年5月 裁判員制度が実施

http://www.yomiuri.co.jp/feature/20081128-033595/fe_090104_02.htm