小豆色のオープン馬車が近づいてきた。目の前を過ぎていこうとした時、思わず口にした。「どうぞ美智子さま。あまり遠い人におなりにならないで下さい」
1959年4月10日。女優の中村メイコ(74)は、東京の慶応病院近くの中継所で、夫の音楽家神津善行(77)と並び、ご成婚パレードの実況を担当していた。
皇后さまとは同い年で、どちらも東京育ち。プリンセスラインと呼ばれる形のコートや小ぶりのミンクのショールは、自分が身に着けていたものと同じだ。
しかし、親近感を強めたのはそれ以上に、市井の女性たちとは異なる人生を歩まれるお立場を、自分に重ね合わせたからだった。
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2歳の時、映画の子役でデビュー。ラジオの生放送ドラマで1人5役以上の声を使い、「七色の声」と評判に。通学する時間がなく、撮影の合間に喜劇役者の古川ロッパに英語を習った。
週に十数本の出演番組を抱えていた19歳の時、神奈川県・茅ヶ崎の海に飛び込んだ。心で「普通に暮らしたい。誰も私を知らない所に行きたい」と叫んでいた。
運ばれた病院で連絡を取ったのは、音大生だった神津。中村の両親に「泳ぎ疲れ」と説明してくれた。世間の常識を知らない売れっ子女優に、神津は電車の切符の買い方を教え、映画館に連れて行った。
23歳で結婚し、翌年に長女、4年後に次女が誕生。「専業主婦に」という中村を、夫は「これからの女性は仕事をしなきゃ。応援してくれた人たちのためにも続けなさい」と励ました。
ただ、「そういう夫も、やはり昭和一ケタ生まれの男でした」と中村は笑う。「食事は自宅で」という主義の夫のため、朝5時に起床、3食の下ごしらえをして仕事に出た。女優業と育児、炊事、掃除、洗濯——。嫁いでからの睡眠は平均3時間。子どもたちに「パートに行ってくるね」と言い残し、テレビ局に向かった。
38歳で第3子となる長男を出産した。1972年、世間は第2次ベビーブーム。中村はこの年から始まったNHK「お笑いオンステージ」の主演を務め、さらに仕事の充実を図る時期だったが、「もう一人子どもを」と望む夫の考えに同意した。
同番組で共演した俳優の伊東四朗(71)は「芸歴は大先輩で伝説の人」と中村へのあこがれを語る。中村が長男出産の後に番組に復帰した際も、「仕事は完璧(かんぺき)。家庭との両立に苦労してるなんてみじんも感じさせなかった」という。
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「舞台人には『女優時(どき)』というのがある」と中村は話す。自分に何度か訪れた「女優時」には、妻や母親の役割を優先してきた。「70年以上、芸能界にいるけど、これという代表作がない。珍しいでしょ」。日本を代表する女優の杉村春子から楽屋で「女優は片手間ではできない。結婚しないものよ」と意見されたこともある。
しかし、中村は「自分の選択に悔いはない」と言い切る。「私にとって舞台に立つのと同じくらい、家族とコーヒーを飲む時間は大切」。若い世代の女性にも「仕事、家事、育児。古いみたいだけど、我慢の美学。50代には実りがあるはず」とアドバイスする。
昨年、大河ドラマ「篤姫」で和宮付きの女官を演じた。1月29日まで東京でブロードウェーミュージカルに出演。2歳からの女優の経歴は途切れない。
3人の子供たちはエッセイスト、女優、画家とそれぞれの道を進んでいる。「長女が独身なのよ。母親の大変だった姿を見ているから、結婚は考えられなかったって」。爪をシルバーのラメに彩った両手をかざしながら心配そうに話す。女優と母親の顔が交錯した。
(敬称略)