スタジオの床に滑り止めの松ヤニが塗られていた。オーケストラと合唱団を従え、数十人で華麗なバレエの舞を演じた。
1959年4月、「世紀のご成婚」を記念した民放番組。失敗が許されない生放送の緊張よりも、気持ちの高ぶりのほうが強かった。「シンデレラが王子と出会った舞踏会のよう」
バレリーナの牧阿佐美(74)は当時、皇后さまと同じ24歳。母、橘秋子が昔、バレエ界入りを決断した年齢でもあった。
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宇都宮市の小学教師だった母は、東京で見た洋舞に魅せられ、退職して家出同然で上京。24歳でロシア人ダンサーの弟子となった。後に結婚した舞踊研究家との間に杉並区で生まれた阿佐美は、母の巡業の都合から、生後18日で畳屋を営む夫婦に預けられた。
母は娘に徹底的にバレエを教えた。4歳で初舞台。日舞や華道もバレエに必要な素養として仕込んだ。
19歳の時、母に「アメリカに行くのよ」と、単身留学を通告された。「逆らうなんて考えられなかった」。ニューヨーク行きのプロペラ機内で、心細さに泣いた。
アメリカでは1年間、母の知人の商社員宅やアパートで暮らした。自炊したが、持参した500ドルはすぐ底をついた。現地で知り合った新聞社の特派員らから米を分けてもらった日もある。レッスンは朝、昼、夜。「生活は質素だったけれど、1年で3、4年分練習した」という豊かな自負は、後の人生を生き抜く力となる。
帰国し、母とともにバレエ団を設立した。団を飛躍させたのは64年の東京五輪。公演期間中は一つの演目を披露するものというバレエ界の常識を破り、15日間で「ジゼル」全幕、「くるみ割り人形」など多くのプログラムを踊った。「バレエの多面的な魅力を知ってもらおうと、母と二人で無我夢中でした」と振り返る。
5年後、母はバレエ生活40周年の記念公演の直後、肝硬変で入院。阿佐美は看病とレッスン、バレエ団の金策に追われた。チケットがさばけず、楽団と会場に支払う前金が開幕前日まで工面できなかったこともある。
母は2年後に63歳で他界。阿佐美は37歳だった。団にはダンサーや研修生ら200人が残っていたが、多額の借金を抱えていた。
当時の阿佐美の苦境を、古くからの団員の豊川美恵子(61)は「バレエの天才少女でお嬢様という印象が強く、一人で団経営は無理だろうと離れていった団員も多かった」と語る。
しかし、一緒に借金申し込みに奔走するうち、本当の芯の強さを発見したという。「結局、この人しかいないと大勢が残った。もちろん私も」。豊川は先輩への敬慕の念を失わない。
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阿佐美は母の死去の年に踊り手を引退、団経営に専念した。体の傾き方に数ミリまでこだわる指導で、草刈民代や酒井はななど日本を代表するバレリーナを育成。アジア人で初めて英ロイヤルバレエ団付属学校で教え、イスラエルにも招かれた。
49歳で、17歳下のバレエダンサー三谷恭三(58)と結婚。「母がいたら、『バレエに専念を』と結婚に反対したかも」と笑う。
99年、新国立劇場の舞踊芸術監督に就いた。豊川は同劇場バレエ研修所主任講師として阿佐美を支え、団の運営は夫が担っている。夫は妻を「忍耐と責任感は人一倍」とし、「もう少し、ぼくに弱みを見せてほしいと思うこともありますが」。
昨年秋、文化功労者に選ばれた。授賞式後の皇居の食事会で、皇后さまから「いいバレリーナを育てて下さい」と声をかけられた。2月には自身が新たに振り付けた古典「ライモンダ」の公演が控える。
若い世代の女性には「悩むより、やってみるべきよ。私もそうでした」と助言する。70年を超えたバレエ人生は、ますます円熟している。(敬称略)