新宿コマ劇場脇の出入り口から、曲がりくねった通路に4店が並ぶ「コマ飲食街」。飲食店は3軒で、もう1軒は店の内外に洋服が陳列されているが、看板には「カメラのいがらし」と記されている。劇場とほぼ同じ年数を過ごしてきた6坪のこの店も、劇場閉館とともに姿を消す。
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店主の五十嵐京子(72)は高校卒業後、京都から上京し、新宿駅西口でカメラ店を営んでいた15歳年上の五十嵐金(きん)と結婚。2子をもうけた。
1961年、喫茶店をコマ飲食街に開店。新宿西口再開発のためにカメラ店をここに移転しようとしたが、飲食店以外の営業が認められなかったという。
乳飲み子を背負って厨房(ちゅうぼう)と客席の間を走り回った。厨房のカウンターをくぐる際に背中の赤ん坊が頭をぶつける。見かねた当時の劇場運営会社社長の松岡辰郎が、特別に物品販売営業の許可を出してくれた。
開店半年の喫茶店をカメラ店に改装。ライカ、レチナ、コンタックス。狭い店内のショーケースに、夫が集めた外国製のアンティークカメラを並べた。
公演の合間を縫って北島三郎や芦屋雁之助などカメラ好きの出演者が顔を出した。京子は、お茶を飲みながら世間話をする芦屋が役者だと思わなかったという。「ある時、劇場のポスターに載ってたからびっくりしちゃった」。夫婦も、手が空いた時はよく劇場の公演を見に行った。「一昔前までは顔パスで入れた。ひばりさんのファンでした」
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店の経営は楽ではなかった。アンティークカメラの仕入れ額は「総額3000万円を超えたはず」というが、職人気質だった夫は、使いこなせない客には絶対に売らなかった。京子は「店を出たお客さんを私が追いかけ、頭を下げて買ってもらったことが何度あったか」と笑う。デジタルカメラが普及した90年代後半、歌舞伎町かいわいのカメラ店は次々に消えていった。
夫は3年前に他界。生前、妻がカメラに触れることを嫌がり、「店はおれが生きている間だけにしろよ」と繰り返していた。店は赤字続き。京子は「これで潮時」と思った。
ところが夫は、「店を頼む」という遺書を残していた。頼っていてくれたことがうれしかった。
ただ、残されたアンティークカメラの価値や性能はよくわからない。夫の気持ちを酌んでカメラ店の看板は残したが、「生半可な知識で扱ったらマスター(夫)に怒られちゃう」とカメラは貸倉庫に預け、店は服やかばん、宝飾店を売るリサイクルショップに変えた。
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夫を失って3年間、何とか家賃分は稼いできた。店は、劇場閉館前日の今月30日が最後。川崎市の自宅で、残った約300台のカメラをインターネットで売ろうかと考えている。
劇場閉館を知ったなじみ客が店に立ち寄っては「さみしくなるね」と声をかけてくれる。実感はわかないが、荷造り用の段ボール箱を見ると、半世紀の思い出がこみ上げる。
「ふつうなら会えない舞台出演者が店に来てくれたし、公演帰りに常連になってくれたお客も多かった。コマ劇場のおかげでいい出会いを経験できました」。商品がまばらになった店内で書類整理の手を休め、京子はこうつぶやいた。
「今まで、本当にありがとう」
(敬称略、おわり)
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この連載は松原靖郎が担当しました。