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2008年11月24日(月) 00時00分

(上)戦後復興支えた大地読売新聞

初の生コン工場 建設工事にフル回転
昭和初期の浅草(現業平橋)停車場。2階は本社事務所(花上嘉成・東武博物館長所蔵)

 1657年の「明暦の大火」で江戸は焦土と化した。そこで、隅田川東岸の低湿地だった本所地区に、武家屋敷の移転が始まる。「墨田区史」は「江戸のニュータウン開発」と呼ぶ。

 だが、区文化財保護指導員の五味和之さんは、「スカイツリーのできる一帯は北の外れで、農村地帯のまま。歴史的には明治以降に駅ができるまで、何もなかった場所」と語る。

 明治の代。1899年に北関東から繊維や農産物を東京・北千住まで運ぶ東武鉄道が開業した。1902年、線路は北千住から南進し、いまの業平橋駅の位置に「吾妻橋駅」が開かれる。新ターミナルの誕生だ。

 「着いた貨物は、北十間川に面した岸壁から舟に積み込まれた」と同社の資料にある。いまも流れる北十間川から隅田川などを経て、物流が東京を潤した。

 10年には、随一の繁華街の玄関口たらんと、駅名を「浅草」と変え、旅客駅にもなった。実際の台東区浅草は隅田川を隔てて1キロ西。“偽装表示”気味だったが、駅周辺はにぎわった。

 翌11年、両国にあった本社を、「浅草」駅近くに移した。SLの機関庫と検査・修理工場も併設された。

東京スカイツリーの建設現場。左端のタンクのある建物が解体中の生コン工場

 スカイツリー建設地約3・7ヘクタールは、大部分がこの本社や貨物ヤードの敷地だ。

 12年には、すぐ近くに京成電鉄の押上駅もできた。

     ◎

 23年9月1日。関東大震災がこの地を襲う。東武本社や「浅草」駅は全焼した。機関車6両や、貨車29両なども燃え、営業の再開には3週間かかった。

 だが、翌24年に東武鉄道は本社を新築。31年には、隅田川に橋をかけ、同社の悲願だった本当の浅草への乗り入れを果たす。鉄骨鉄筋コンクリート造りの東武ビルを完成させ、この駅を「浅草雷門駅」(いまの浅草駅)と名付けた。もとの浅草駅はここで、いまの「業平橋」へと改称した。

 復興成ったこの地を、今度は戦火が襲う。45年3月9〜10日の東京大空襲。

 「地獄でした。わずか2時間半で見渡す限り、焼け野原になってしまった」。母親を失った墨田区東向島の画家・小針美男さん(81)は、黒焦げ死体の転がる光景を忘れない。

 業平橋駅の駅員も、惨状を『東武労組30年史』に記した。「よくここまで破壊しつくされたの感じだった。駅構内も周辺の建物も焼け落ち、焼死体が構内のあちこちに転がっていた」

 ホームから隅田川の向こうを見ると、浅草の東武ビルの残骸(ざんがい)が、ぽつんと立っていたという。

     ◎

 終戦から4年。業平橋駅構内に、「磐城セメント」が国内最初の生コン工場を造る。栃木県佐野市から東武鉄道が運んだ石灰石などを原料にした生コンクリートは、鉄道、道路、ビル建設に大きく貢献した。特に、地下鉄丸ノ内線の建設工事ではフル回転だった。

 数年後に並んでできた「日立コンクリート」の工場とともに、「戦後の復興を支えた」と文化財保護指導員の五味さんはたたえる。

 昭和が終わり、2006年3月。東武鉄道による新タワーの建設が決まった。磐城セメントの工場は、「東京エスオーシー業平橋工場」と名を変えていたが、07年秋に閉鎖し、姿を消した。「一つの時代が終わった」と岡野光取締役(59)。現在、日立コンクリートも解体が進む。再開発される駅前の店舗は続々と閉店し、東武鉄道本社も来年秋には移転する。

 戦前の物流を担い、戦中に辛酸をなめ、戦後の復興を支えたこの地に、ご褒美のようなツリーが建つ。

 「もう工場がないので、タワーの工事に生コンを納入できないのが残念。だけど、今後、スカイツリーが観光の起爆剤になってくれれば」と岡野さんは願う。

 ツリー完成後、この場所には“生コン工場発祥の地”の石碑が建つ予定だ。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231227458486992_02/news/20081124-OYT8T00138.htm