私たちが店に着いたとき、彼は不在だった。閑静な住宅街の中でもひときわ目を引く、大きな日本家屋。門をくぐると、右手には蔵もある。門から玄関までの石畳のまわりには、抹茶のように鮮やかなグリーンの苔がじゅうたんのように張りめぐらされていた。
大小の石がバランスよく配置され、日光はまず木に注ぎ、それから、石と苔の上に葉の形をくりぬいた影を落としていた。「美しい家」。私たち(私とカメラマン鈴木氏)は思わず顔を見合わせた。「とてつもなくいい画が撮れそう!」だからだ。玄関に入って、呼び鈴を鳴らししばし待つ。スタッフの女性に案内されて室内へ。
広々とした和室は30畳くらいかもっとある様子。襖を取り去って開放感のある店内に仕上げている。客席からはこれまた見事な中庭が臨める。ところどころキャンドルが置いてあるところを見ると、夜は火が灯り、かなりロマンティックな日本家屋(笑)になるのだろう。
大きな家に広い庭。思わずため息が出る。鈴木氏とまたもや顔を見合わせ、今度は声まで揃った。「ここの家の猫になりた〜い!」この立派な家と家族の愛情を独り占めしている猫とはどんなものか。はやく彼に会いたい。期待が募る私たち。そこにご主人がやってきた。ねじり鉢巻に作務衣姿、髪を後ろで束ねたスタイル。芸能人のようなオーラ。少し怖そうに見えた。「そばを打つところを見ますか?」「ハイ!」そう、この店は、食通をも唸らせる絶品手打ちそばがいただけることで有名な一軒家風そば店なのだ。
「シンバちゃんはどこにいるんですか?」「そういえば見ないな」「帰ってきますか?」「その辺にいると思うよ」店内の撮影、おそばの撮影を終えて、あとはシンバちゃんの帰りを待つばかり。早くしないとお昼時になってしまう。
伸び伸び店内でくつろぐシンバくんを撮りたかった。スタッフ、ご主人、そして私たち全員でシンバくんを探す。「シンバくーん」「シンバー」いつもいるはずのお庭の定位置にもいない。声も聞こえない。あせる私たちにご主人が教えてくれた。「シンバはガキ大将でね、ケンカが強かったんだ。女の子(猫)にもずいぶんモテて、この辺りには元カノとか隠し子がたくさんいるんじゃないかな?」うわー。
シンバくんって、ちょいワルオヤジ風猫なの?そういえば、ご主人もちょいワル風に決めたら似合いそうな雰囲気。急に元ボクサーの辰吉のような顔をした猫を想像してしまった。たまにのら猫でそんな風貌の雄猫を見かけることがある。シンバくんもそんなやさぐれ系猫なのか?!
そのとき、「アーン」という何ともかわいらしい声がした。廊下でころころしてご主人に甘えている。立ち上がって、スタッフの人が手に持ったかつおぶしを必死に追いかける。「かつおぶしが好物なんです。」すかさず撮影タイム。シンバくん、ずっと何かを話している。きっと外で見てきたことをご主人に聞いてもらいたいのだろう。大きなお目目に、高めの可愛らしい声。甘える仕草も、きっと猫ファンなら腰が砕けそうになるくらい愛らしい。くるっと振り返り、今度は私に向かって何かを話している。「うんうん」「そっかー」あいづちを打つと、もっと話してくる。
「アレ?ガキ大将じゃなかったっけ?辰吉は?」とご主人に訪ねると、「まわりに迷惑だから、去勢手術をしたんだよ。そうしたらこの通り」とのこと。素敵な日本家屋そば店の看板猫は、殿様風でもなく、ちょいワルでもなく、おしゃべりな甘えん坊くんであった。
そうこうしているうちに、ランチタイムで店内は満席。玄関で待つ人も。シンバくんは上機嫌で外へ。私たちの後にくっついて跳ねるように歩くシンバくんは元ガキ大将とは思えないくらい可愛らしい。そしてこの間にもずっと話をしている。
取材を終えた私たちが玄関で機材の整理をしていると、石の上にだらーんと寝そべったシンバくんのまわりを、お客さんが囲んでいた。ビジネスマンたちが、「かーわいいなあ」「シンバー」「落ちるぞ、シンバ」などと彼に声をかけている。シンバくんは時折目をあけながら、さらに伸び伸び。ビジネスマンは、笑顔、談笑。美味しいおそばを食べて、可愛いシンバくんに会って、さらに仕事に精が入ること間違いない。
もしかしてシンバくんは、みんなの喜ぶのを知っていて「自ら癒し系に転身した」のではないだろうか?そんなことを考えてシンバくんをちらっと見たら、彼がウインクしているような気がした。
仙酔庵(せんすいあん) 場所 大阪府大阪市城東区鴫野東2-27-4 TEL:06-6961-1031