2008年08月13日(水) 11時21分
世界平和を祈念し、長崎の鐘は今日も(オーマイニュース)
地元に九条の会ができました。名前は「みさと早稲田9条の会」。早速発足の集いに参加した。ギター演奏の後、戦争体験者のお話がありました。シベリア抑留経験のある男性はこんな発言をしていました。
「私にはにおいがする。それは戦争のにおいだ。戦争は資源争奪のために起こる。石油価格は上がっているが、現地では上がってない。(間の)誰かがもうかっている。私は命のある限り戦争に反対する」
印象に残る会となりました。
その会で『戦争がなかったらIII 平和への希い』というさいたまコープ三郷平和グループ発行の小冊子を買いました。この本は地元の小さなグループが少ない部数だけ出したものなので、この記事をお読みの方の中には読んだ人はまずおられないでしょう。冊子が作られた2005年からは、すでに亡くなっている方もおられるので、三郷の生活協同組合のおかあさんたちは貴重な仕事をされたと思います。
この中には貴重な10人のお話が載っていますが、ここでは1人のお話だけ紹介します。それは「蝉の鳴かなかった八月」という長崎で被爆された久保山栄典さんのお話です。
1945年(昭和20年)の日記形式で書かれています。
■8月9日
一度出掛けた父が、なぜか忘れ物をして2回も取りに戻り、「今日は行きたくないな!」と呟(つぶや)きながらも午前中で仕事は終わるので昼飯は一緒に食べようと言いながら、何度も、何度も振り返りながら手を振って出掛けて行きました。
「あれが、われわれ家族に別れを惜しむお父さんの最後の姿だったのね」と、今さらのように休ませればよかった、と時々呟(つぶや)く、母の嘆きとともに思い出されます。
この日はとても暑い日でした。午前11時2分、空襲警報解除のサイレンが鳴り、住まいの床下に掘ってある防空壕(ごう)から出てきたすぐ後でした。飛行機が急上昇する爆音が響き、同時に周囲の空間が黄色になりました。その瞬間、本能的に異変を感じ、また、畳を剥(は)ぐって再び壕(ごう)に飛び込んだのと同時でした、ものすごい勢いの熱風が吹き、家はつぶれ、身動きもできないように家財道具等が倒壊、散乱しました。
ややしばらくして、安全な所に避難するために戸外に出た瞬間、わが目を疑いました。いつの間にか周囲が朱一色で、太陽も真っ赤に染まり、この世の終わりが来たのかと呆然(ぼうぜん)としました。そして次の瞬間、地球全体が爆発するのではないかと身が凍る思いでぞーっとして、しばらく身体の震えが止まらず、血の気が引いたのを覚えています。何が起きたのかわからないまま、時間の経緯と共に父の帰りが遅いことが気懸かりになってきました。
私の義理の母も長崎で被爆しており、この文章を読んで母に、もっとよく話を聞くことは私の義務だと思いました。
■8月14日
父の死体は燃料不足で完全には焼けきれず、特に頭の部分は半生の状態だったので、いまだ燃え続けている焼け跡から鉄の棒を探してきて、なかなか割れない頭蓋骨を、かなりの時間をかけて細かく割り、今度は1人で燃えかすを集め、また木片を集めて火をつけて帰ることにしました。人間の頭蓋骨がものすごく硬いことと脳みそが蜂(はち)の巣の様になっていることを、その時初めて知りました。まだまだやって来る敵機に対して叫びました。
「馬鹿垂れ、これは人間のやることではないぞ、必ず仇を取ってやる」
火垂るの墓でも妹を兄が焼く場面が一番悲しい場面だが、この頭蓋骨がものすごく硬いことと脳みそが蜂の巣の様になっていることはとても普通の人間は知りたくないことです。久保山さんの文章は次のように終わっています。
■戦争を知ろうとしない人に平和憲法はわからない
人間社会と自然との織りなす循環が、振り出しに戻る被爆60周年を前に、私たちは今こそ人類未曾有の経験であった被爆という原点に戻り、この1年の間に、新たに希望に満ちた未来に向かう座標軸を創(つく)らねばなりません。戦争を知らない、そして戦争を知ろうとしない人に平和憲法はわからないのです。
現在、母も90歳です。高齢化が進み、やがて消えて行く原爆の被害者が、生きているあとわずかの時間。生態系を破壊し、人道に対する犯罪である核兵器の廃絶、日本は絶対に戦争をやらないということを若い世代や原爆の悲惨さを知らない人々にも訴えたいと思い、被爆者の1人として参加させて頂きました。
アメリカに遠慮してばかりいてもどうにもなりません。長崎の鐘は今日も世界平和を祈念して鳴り響いています。
(記者:大津留 公彦)
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