2008年08月13日(水) 11時20分
平岡熈(ひろし)を知っていますか(1)〜1枚の切り抜きが誘う“人物考古学”の旅(オーマイニュース)
2008年7月、日本人メジャーリーガーの事実上のパイオニア、野茂英雄が引退した。米国と日本の間を、野球で橋渡ししたパイオニアがもうひとりいる。
平岡熈(ひろし)だ。
えっ、知らねぇってか?
じつはこの平岡熈(ひろし)が、日本に野球を紹介した人物だ。明治11年(1878年)、なんと西南戦争の翌年だ。
平岡熈(ひらおか・ひろし 1856〜1934)。米国で鉄道技術を学ぶ。帰国後、鉄道技師として国内初の車両工場を経営。その一方で、米国から持ち帰ったバットとグラブで日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を立ち上げた。ローラースケートを日本に初めて紹介した。邦楽「東明流」の開祖。つり名人で日本で初めてリールを使った。昭和34年(1959年)に故広瀬謙三氏の推薦で野球殿堂入り第1号(特別表彰)となった……。
◇
なぜ、おいらが平岡熈(ひろし)にそんなにご執心なのか。まず、そのワケをお話ししよう
おいらには、江戸川に住む叔母(細野みち江)がいた。みち江は神田生まれの江戸っ子で、さばさばした性格の女性で、私はちょくちょく家を訪ね、世間話に花を咲かせた。
ある日の世間話の途中で、叔母が突然席を立ち、隣の部屋で探し物を始めた。しばらくして戻ってきた叔母は、なにやら紙切れのようなものを手にしていた。
おばさん、それ何だい?
叔母は真剣な眼差しで、
「ここに、ヒラオカさんのことが載ってんのよ。だから大事に取っておいたんだよ」
という。
新聞の切り抜きだった。読んでみると、そこには平岡熈の名前があった。
ヒラオカさんて、だれだい?
「えーっ、忘れたのかい? あんたのおじいちゃんがお世話になった、ヒラオカさんだよ」
はあ? でも、たしかにどこかで聞き覚えがあるような……。そういえば、おいらが中学生のころ、おじさんが言ってたっけ。
「おまえのじいさんはね、ヒラオカさんと一緒に野球をやってたんだよ」
叔母から新聞の切り抜きを拝借して、我が家に持ち帰り、じっくり読んだ。1990年6月11日の読売新聞夕刊。「平岡熈氏をご存じでしょうか」という見出し。寄稿者は小桧山俊氏。読売出身のエッセイストだった。
以来、頭の中に、くっきり平岡熈(ひろし)の名前が刻み込まれてしまった。平岡熈(ひろし)のことが気になって仕方がない。だから、こんなに熱心になるってわけだ。
この思いは、天国にいるじいさん、鈴木仙太郎の導きかもしれない。なぜなら、じいさんは、明治・大正・昭和の初めまで平岡熈(ひろし)の工場に勤め、平岡熈(ひろし)自身から野球の手ほどきを受け、どうどう「汽車製造会社KSK」という野球チームを結成し、その監督まで引き受けてしまったんだもんな。
前置きはこれぐらい。これから、おいらの掘り起こしたヒラオカワールドをご紹介しよう。
(全7回予定、つづく)
(記者:鈴木 康允)
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