約1時間のバスツアー中、年配女性の多い車内には、ずっと笑い声が響いていた。
「今日は、いっぱいさくらがいるねえ。妹っていうよりお姉様だな」
先月26日。長野県小諸市で開かれた渥美清さん13回忌のイベントで、第40作「寅次郎サラダ記念日」のロケ地巡りのバスツアーが実施された。1号車のガイドを務めたのは、格子じまの背広と帽子、腹巻きに雪駄ばきの「野口寅さん」こと野口陽一さん(58)。葛飾柴又で寅さんの物まねガイドを12年間続けてきたサラリーマン芸人だ。
葛飾柴又にほど近い東金町育ち。大学浪人4年目の22歳の時、映画館で初めて第9作「柴又慕情」を見て、大学受験をすっぱりやめた。
この作品で、寅さんは、同僚と旅行していたOLの歌子(吉永小百合)と出会い、旅の連れとなる。心の赴くままについて行く寅さんを見て「おれも自由に生きるぞ」と、あこがれていた芸人の道を目指すことを決めた。
だが、現実は甘くない。「フーテン生活」を数年間続け、両親からは「早く定職に就け」と言われる毎日が続いた。仕方なくNTTの関連会社に就職したが、芸人の夢は捨てきれず、声帯模写の師匠に弟子入り。仕事を終えた後に劇場などで芸をする「5時から芸人」の生活を始めた。
34歳で失恋した。
5年間付き合っていた10歳年下の女性にわざと嫌われるようなことを言って、遠ざけるようになった。お笑いコンテストで優勝することはあったが、芸人としては無名。所帯を持っても幸せにできる自信がなかった。
恋人が自分の紹介した友人と仲良くなると、テレビのお笑い番組で優勝して、再び自分に振り向いてもらおうと思った。「テレビ演芸」にテニスコントの「マッケンジョー」の芸名で出演したが、緊張し過ぎてセリフを忘れ、司会の横山やすしさんに「なめとんのかコラ」と本気で怒られるという“伝説”だけが残り、彼女は友人と結婚した。
38歳の時、司会を務めたお見合いパーティーで出会った女性と半年でスピード結婚したが、結婚生活も4か月しか続かなかった。
婿入りした先の県議の義父から「今から大学に入って県議になれ」と命じられた。「芸人になりたい」など冗談でも聞いてもらえそうにない。義父の買ってくれた車に乗って、東京に夜逃げした。
その後も一緒に仕事をした25歳年下のダンサーに恋をするが、またも親友に奪われて失恋。寅さんを地で行くような人生を歩んできた。
1996年8月、渥美清さんが亡くなったという訃報(ふほう)をニュースで聞き、いても立ってもいられず、寅さん風の衣装を着て柴又を歩いた。声帯模写をしたことはあったが、寅さんの格好までしたのは、その時が初めてだった。
「寅さんだ、寅さんだ」と、人だかりができた。寅さんの口調で話しかけると涙ぐむファンもいた。みんなが寅さんを求めてるんだと感動した。以来、毎月2回、寅さん姿で観光客を案内する「物まねガイド」をボランティアで行うようになった。
3年目に一度やめようと思ったが、山田洋次監督から「あなたのお陰で柴又を訪れる寅さんファンがどれだけ楽しい思い出を抱いて帰ることが出来るでしょうか。常々感謝しております」との礼状をもらい、やめられなくなった。
昨年、視覚障害者の若者たちを案内していた時、柴又を偶然訪れていた倍賞千恵子さんと会った。「いいかい青年たち。さくらが来てくれたよ。良かったね」と言うと、倍賞さんは「お兄ちゃんもたまにはいいことするのね」と、返してくれた。
今では、障害者施設や老人ホーム、刑務所などの慰問も行っている。刑務所の慰問で「早く出て、遊びに来いよ」と声をかけた若者から、柴又で声をかけられたこともある。彼は「小菅から来ました」と、笑顔で目配せした。
仕事と芸の二足のわらじ。家に帰れば寝たきりの父(90)と腰を痛めた母(84)の介護が待っている。それでも、「野口寅さん」を続けることで、自分は救われていると思う。
「かつては日本中にたくさんいた、おせっかいで優しい寅さんのような人が、傷ついた人や弱い人には必要なんです。求める人がある限り、死ぬまで寅さんやりますよ」