2008年08月04日(月) 11時25分
大阪に残った、唯一の古代丸木船(オーマイニュース)
大阪では過去に8隻の丸木船がみつかっていますが、大阪空襲で消失し、現在残っているのは、大阪中央市場近くの船津橋付近で発掘された丸木船、たった1つです。
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その丸木船をたずねて、大阪市立「なにわの海の時空館」へ行ってきました。
大阪市営地下鉄中央線のコスモスクエア駅で降りると、1番出口に大きい案内看板があります。そして海岸沿い西側に、特徴的なドームが見えます。
約650メートルの海岸通りは、真夏のカンカン照りでも海風が心地よく、かっこうの散歩道です。
入館して、海中トンネルを渡りきると、そこは総ガラス張りの展示館です。4208枚のガラスを使ったドームは、大阪南港を360度見渡せます。
■所有者は北野高校
目的の丸木船は2階にあります。以前は大阪城内の市立博物館に展示されていましたが、ここは明るくゆったりした展示場で、見ちがえるようです。
側面に、櫂(かい)を止めるための出っぱりが並んでいて、舟艇には帆柱受けがついています。
そして説明板に「所蔵大阪府立北野高等学校」と書いてありました。この説明は、大阪城の時にはありませんでした。
さて、どんないきさつで北野高校の所蔵になったのでしょう。
北野高校は、難波御堂→堂島→北野→十三南(現在の新北野)と校舎を移しています。発掘された1930年当時の校舎は、現在、済生会中津病院が建っている北野にありました。北野という校名は、ここの地名に由来しています。森繁久弥が通ったのは、この北野校舎で、もちろんその当時は旧制中学でした。
発掘現場は大阪中央市場近くの船津橋のあたりです。ですから、当時の旧制北野中学の敷地から発掘されたわけではありません。
それでは、旧制北野中学の先生と生徒の手で発掘されたのでしょうか?
何しろ78年前の話です。現在の北野高校でやみくもに尋ねても分からないでしょう。まだここの方が手がかりくらいはつかめるかも、と思いました。
さいわい「海の時空館」では、スタッフが質問を待ち受けてくれています。ダメだろうなと思いながらも尋ねてみました。するとその場で電話を入れてくれて、企画課長の神垣八千代さんが来てくださいました。
質問の答えは、旧制北野中学関係者が発掘したわけでもなく、当時は遺物を管理保存する設備がなかったので、学校がその役目を果たしたのだろう、ということでした。
納得して帰ったのですが、石橋に移る前の大阪大学が、福島にあったということを思い出しました。
調べてみると、発掘された1930年にはまだ「府立大阪医科大学」で、31年に「大阪帝国大学」になっています。医科大学よりは普通科の旧制中学校の方がふさわしかったのでしょうか。
なお旧制北野中学が現在地に引越ししたのも、31年のことです。あと1年遅く発掘されていたら、船津橋の丸木船は、阪大の所蔵になっていたのかも知れません。
神垣さんのお話によると、2000年に大阪市立博物館から丸木舟を移送するに当たって、木材の精密調査をしたところ、ラワン材だと断定はできなかったそうです。
大型丸木船は外洋船です。大阪市立博物館時代は、東南アジアから漂流して来た船かも知れないと説明されていましたが、ラワン材でないとすれば、朝鮮半島から渡ってきた船である可能性があります。
韓国南部の勒島では、倭人がもたらした弥生土器が出土しています。お互いの行き来に使われたのは、こんな船ではなかったでしょうか。
福島区玉川の船津橋へ行ってみました。船津橋は安治川に架かる橋で、大阪市中央卸売市場あたりから、中之島の最西端へと渡っています。
件(くだん)の丸木船がやってきたのが弥生時代だとすれば、ここは陸地(上町台地)から離れた大阪湾の海中でした。船と同時に発掘された遺物がありませんから、土器などを満載した沈没船でもないし、港に係留していた船が何かの力で流れだし、転覆したのでしょうか。
たった1つ保存されてきた丸木船は、貴重な文化遺産です。1度壊せば2度と戻りません。どんなに財政難でも、補修・保存・展示されなければなりません。
どうかみなさん、博物館を守るためにも、ぜひこの夏休み、「なにわの海の時空館」を訪ねてください。
(記者:塩川 慶子)
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