日本を拠点に、バイオリン一丁を携えて世界各地で演奏活動を続ける。舞台に上がる時は、日本手ぬぐいを頭にかぶり、ベートーベンやブラームスなどのソナタを奏でる。その生き方は、カバン一つで旅をして、ねじりはちまきで商売する寅さんに、ちょっと似ている。
バイオリニストのアテフ・ハリムさん(57)(杉並区)は、カイロで生まれた。父はエジプト人、母はフランス人。5歳でバイオリンを始め、13歳の時、「クラシックの本場で勉強したい」と、単身パリに渡った。パリ音楽院を卒業すると、フランス国立管弦楽団に入団。コンサートマスターにまで上り詰めた。
巨匠ヘンリク・シェリングの誘いを受けて内弟子になり、ソロデビュー。1984年にフランスの一流紙「ル・モンド」で「最も知的で輝かしい音楽家」と称賛された。
日本に来たのは、パリで出会った日本人男性から、「日本で音楽学校を設立するので、校長になってほしい」と誘われたのがきっかけだった。
93年1月、「アーティストが同じ場所でよどんでいてはダメだ」と決意し、拠点を日本に移した。ところが、その男は約束した金も支払わずに、行方をくらましてしまう。途方に暮れたが、「これも運命。むしろ、彼は日本への扉を開いてくれた」と、後悔はしなかった。日本で音大生らのレッスンを行い、コンサート活動を始めた。
来日まもないころ、テレビで「男はつらいよ」を見た。どの作品かは覚えてない。日本語もよく分からなかったが、人間の悲哀や喜怒哀楽をコミカルに演じる寅さんに見入った。来日前の日本人のイメージは、「口数が少ない」「喜怒哀楽を表さない」「拝んでばかり」……。しかし、この映画で、それまでの日本人観が変わった。うれしい時は笑い、悲しい時は泣く。取っ組み合いのケンカもする。「日本人も同じなんだ」と思った。映画は、日本の伝統的な習慣や義理人情を知る上でも、良い教科書になった。
住めば都というが、日本が気に入った。米も水も野菜も魚もうまい。納豆も好物だし、銭湯での素っ裸の付き合いも楽しい。最初に覚えた日本語は「極楽、極楽」。銭湯の湯船で習った。
96年6月。ハリムさんは、“マドンナ”と出会う。コンサートのスポンサーが主催したパーティーで、口元にホクロのある日本人女性に一目ぼれしてしまったのである。
「そのホクロは、あなたの顔に輝く星です」と声を掛けた。森明美さん(48)は「フランス人って詩的な表現をするんだなあ」と、ちょっぴり感激した。森さんはテレビの仕事で世界各地を駆け回るリポーター。ハリムさんはコンサートの司会を森さんに依頼するようになり、99年11月にゴールインした。
結婚後、森さんのアレンジなどもあって、日本国内での演奏の場所も広がった。ファンからプレゼントされた日本手ぬぐいを、頭に巻いて演奏するようになった。「気合が入る」と、演奏の際には欠かせないトレードマークになった。寅さん好きの外国人バイオリニストであることも評判になり、今年5月には葛飾柴又寅さん記念館でコンサートを開き、「男はつらいよ」のテーマ曲を奏でた。
ハリムさんが好きなシーンがある。第15作「寅次郎相合い傘」で繰り広げられる有名なメロン騒動。とらやで、さくらたちがメロンを食べているところに帰ってきた寅さんが、自分の分がないことに腹を立てる場面だ。
「さくら、俺(おれ)はたった1人の兄ちゃんだぞ。その兄ちゃんを勘定に入れ忘れてゴメンナサイで済むと思うのか。お前はそういう心の冷てえ女か」
ハリムさんは「すねる寅さんがかわいい。世界のどこにでもありそうなお茶の間の風景が描かれていて好き」なのだと言う。家族を愛し、故郷を愛する寅さんを見るたびに、カイロの家族を懐かしく思い出す。
「お兄ちゃん、どうしてる? 元気? 幸せ?」。たまにカイロに電話をすると、3人の妹は、いつも日本の兄を心配してくれる。「僕には、さくらが3人いるんですよ」とハリムさん。もう8年も会っていない。「帰りを待ってくれているだろうから、そろそろ顔を出そうかな」