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2008年07月27日(日) 12時07分

華族制廃止で生まれた「霞会館」産経新聞

 旧華族の集まり「社団法人・霞会館」について話を聞きたいと申し出たら、こちらでお待ちくださいとロビーに案内された。霞が関ビル34階、ガラスの向こうに東京湾が見渡せる。

 壁に見事な油絵がかかっていた。明治の洋画家、百武兼行(ひゃくたけ・かねゆき)の「ネメアの獅子と戦うヘラクレス」。見入っていると「すばらしいでしょう。鍋島藩とかかわりの深かった画家です。こうした大作は保管するのも大変で、ご寄贈いただきました」と上品な紳士が登場した。「霞会館常務理事、大久保利泰」と名刺にある。というとあの、大久保利通の? 「はい、4代目」。ここで名刺交換する名前の多くは現代史に直結する。

 そもそも、霞会館って何でしょう。「では、明治維新からお話ししないといけませんね」。『会館の栞(しおり)』や『霞会館百三十年の歩み』(平成16年刊)を基に、大久保さんが説き起こしてくれた歴史を急ぎ足でたどるとこうなる。

 霞会館の前身「華族会館」が創立されたのは明治7年。「華族」の名称は2年の版籍奉還の際、公家と大名を合わせて称したことに始まるが、「華族は国民の模範となり、わが国の近代化に貢献するよう」との明治天皇のお言葉があったことから、活動母体として「華族会館」が創設された。17年に華族令が制定されて勲功による華族も加わり、37年には社団法人になった。子弟教育のための学習院設立や伝統文化保存など活動の場は広い。

 文字通りの活動拠点である「会館」は各所を転々とした後、鹿鳴館に移る。文明開化のシンボルも関東大震災でダメージを受けたことから昭和2年に現在地に新館をつくることになる。

 さて、ご存じの通り、戦後、新憲法のもとで華族制度は廃止された。「華族会館」をどうするか。当然、解散論、存続論が激しく戦わされることになった。先の『百三十年の歩み』によると、「解散は華族の歴史と伝統の放棄につながり、それは先輩たちの意志に反する」ということで存続が決まり、名称については「占領下において誤解を生じる懸念がある」として「霞会館」と改められた。

 それがいまにつながるというわけだが、旧華族の活動とはいかなるものか、そこを知りたい。(編集委員 石野伸子)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080727-00000909-san-soci