2008年07月25日(金) 17時15分
大分で教育を受けた私から先生へのお願い(オーマイニュース)
今年に入って急に増加した感のある無差別殺傷事件の犯人たちの言い分が気になります。
「誰でもよかった」と言う言葉に恐怖を感じます。人の立場でものを考える事はないのでしょうか。
7月23日は、痴漢でっち上げの裁判に関するニュースもありました。大阪の市営地下鉄で2月、示談金目的に、女が痴漢をでっち上げ、その女性が同日、大阪地裁で、でっち上げは「間違いありません」と認めたのです。
無実の罪を着せられる相手の立場で考えることが出来れば、とても犯せない犯罪であります。そして、「誰々が、何々してくれなかったから」と、甘えた言い分を正当化する「くれない族」的な言い分も気になるところです。
大分県、教育社会での不祥事ですが、自分たちの村社会のルールのために、優秀な人材の確保と言う使命を台無しにし、多くの人の人生を狂わせてきました。
教育現場に立つ夢を描き、一生懸命に頑張っていた多くの人たちの進路を塞ぎ、その方々の人生を狂わせて来ました。
また、より優秀な先生から学ぶ機会を子供たちから奪い、元来達することの出来たレベルよりも低いところに留まらせたとも言えるでしょう。
「昨今の凶悪犯罪と大分教育界の不祥事を同列に扱うのは無理があるのではないか」と言われる方もいるでしょう。
しかし、己のことしか意識に無い、さらに人の夢やその後の人生の花を摘み取る行為に何の違いがありましょうや。
しかも、それをやったのは教育者なのです。人の気持ちが分かる人にはとても行える行為ではありません。
私は小学校4年の途中で、高知県から大分県に越してきました。言葉が違うことから、些細なちょっかいがエスカレートしていじめに会うようになりました。
いじめは現在の例に違わず、陰湿なものへと移っていきました。ただ、私も気が強く、多勢に無勢でも喧嘩になったものです。よく顔を腫らして帰る私を見て両親はいつも心配していましたが、中学、高校と進むうちに受け入れてくれる友達も増え、大学へ進学するまでの時期を過ごしました。
この子供の時期に先生から何度も聞いた言葉があります。「喧嘩両成敗」と言う言葉です。
皆さんに問いたい。この言葉は正しい言葉だとお思いでしょうか。また、安易にこの言葉を用いている方はいませんでしょうか。
子供間のトラブルには、きっかけを作ったものがいます。どちらかを非難するまでには至らなくとも、大人は、因果を理解してから、次の言葉を発する責任があると思っています。
それが面倒くさいのか、「喧嘩両成敗」の一言でお裁きをされたのではたまったものではありません。
ちょっかいを出した方は裏で舌を出し、一方、自分が被害者だと思っている方は「あの人に言っても無駄だ」と思うようになります。
これは案外大事に繋がっていきます。
この事象が登校拒否にまで発展するケースは少なくないのです。
「どうした、なぜ学校に来ないのだ。出来ることはしてあげるから先生に話してくれないか」
〔貴方に言っても、無駄じゃないですか〕
このすれちがいの理屈に気づかず、自分が問題の一端になっている事を理解していない先生がとても多くいました。今はどうなのでしようか。
子供にとって、接する大人と言えば、大部分が親か学校の先生です。子供社会のトラブルをジャッジする立場にあるのが、これら親と先生です。
人の立場になって物事を見れる人ならば、子供の話をちゃんと聞いているうちにトラブルの原因や推移の理解が出来るものです。
そして、当事者を裁き、周りの生徒にもその状況を見せながら、世のルール、倫理観を教えていくのも、親や教育者の務めなのではないでしょうか。
残念ながら、昨今、この価値観が気薄化し、教育社会までもが世襲制になったが如きでは、関心が生徒に向かわなくても仕方がないですね。
人間社会のルールは、子供のうちから教えていかなければ、大人になってから「さあ、学びましょう」と言って身に付くものではありません。
今回の一連の不祥事発覚で「あっ、やっぱりね」と思うと同時に、絶望感も感じました。
恐らく日本の教育界は、国を挙げての立て直しが必要となって来るでしょう。人の立場から物事が見られる人を採用し、社会を知った人を採用し、子供のうちに、ある程度の社会ルールを教えられる組織に生まれ変わってもらいたいものです。
大分県内では、文教地区であると言われ、市民もそれを誇りにしている佐伯市で端を発したこの不祥事に、根の浅からぬものを感じました。
(記者:大村 賢三)
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