2008年07月15日(火) 11時58分
秋葉原の献花台にカードがあればよかったのに…(オーマイニュース)
7月14日(月)、秋葉原の殺傷事件現場に置かれた献花台から、お菓子や飲み物を盗んでいく人がいるというリポートをテレビで見た。真夜中近く、山積みしたリヤカーを引いているホームレスと見られる人が、お菓子とペットボトルを袋に入れている姿がカメラに写っていた。ほかにも数人の人が同じような行為をしていた。
番組のディレクターは彼らを追いかけ、なぜそのようなことをするのかを尋ねた。「申し訳ない」と謝る人もいれば、「返せばいいんだろ」とか、「どうせ捨てるんだからいいだろ」とか開き直る人もあった。
番組のコメンテーターたちも何と言っていいかわからない様子で、はっきりした結論は出なかった。この地を管理する立場の千代田区としては、少なくとも「窃盗罪に当たる」との返事があったそうだ。
悲惨な事件の現場に花を供えるのは、これまでは身近な親族や友人であった。しかし、事件が個人の悲劇の範囲を超えて不特定多数に降りかかる大規模な大災害になってから、その事件と現場に無関心でいられなくなった人々が自分の気持ちを表現しようと、花束などを置くようになった。
このような悲しみを共有しようとする姿を私が最初に見たのは、9.11のニューヨーク・ツインタワーの倒壊した現場であったと思う。彼らの悲しむ姿を見て私にもその心は伝わった。6000人もの人が日常生活の中で不意に襲った恐ろしい出来事に生命を奪われ、また救出に当たった救急隊員までも被害に遭ったとは、ほんとに痛ましい出来事であった。
その現場に、多くの花束とともにアメリカ国旗が供えられたのも鮮明に記憶に残っている。アメリカがテロの標的になったという衝撃で、国内はほぼ一致してビン・ラディンへの憎悪とイラクへの攻撃に突っ走ったのであった。
今、あの状況を思い浮かべると、花束とともに多くのカードがささげられていたことを思い出す。大小さまざま、色も形もさまざまの手書きのカードがあった。おそらくそこには、不意の死に襲われた人への深い同情と、それを悼む自分の気持ちが正直に記されていたのであろう。
翻って秋葉原の献花台には、ほとんどが花と食べ物・飲み物で、カード類はあったのかどうか……。この事件に対して大勢の人が無関心ではいられなくて、何らかの気持ちを表したいと思った結果が、このような形で表現されたのであろう。それがあまりに数多くなったので千代田区としては献花台を設置したのだろう。
9.11の事件ではおそらくほとんどのアメリカ人がテロを憎むという同じ気持ちで花をささげたにちがいない。また、JR西日本の福知山線の事件でも、線路脇に設置された献花台に手を合わせた人は、事故を憎むという同じ気持ちを共有していたであろう。
しかし、この秋葉原の献花台にいろいろな物を供える人の気持ちは同じではないのではないか。ネットで多くの若者がこの事件の犯人に共感を寄せる書き込みをしているそうだ。つまり、秋葉原の事件はこれまでのほかの事件とはちがって、花をささげる人の気持ちに変異があるのではないか。
ただ、日本ではこのような場合、供物を供えるという行為しか頭に浮かばない。それには死者を悼むと同時に生き残ったわれわれをもしっかり見守ってほしいという願いがこもっている。今回、秋葉原に集う若者が伝統的な死者の供養のやり方で自分の気持ちを示そうとしたのはすばらしいことだ。
が、そこにもっと積極的に自分の気持ちを表すカードとか、あるいは山小屋などに置いてある書き込みノートとか、そういう方法はなかったか。そうすればネットを見る若者だけでなく、そこを通る大人の目にも触れ、この事件がどのような受け取り方をされているかを知らせるきっかけにもなったのではないか。そして、もしかしたらそこを出発点として、それまでつながりのなかった同じ思いの人たちが、現実世界で連帯することもできたのではないか。
献花台に供えられた物は、供えられた時点でもう役目は終わっている。供えた人の気持ちはそこで十分通じているし報いられている。その後、それらが日々の食物に窮している人たちの飢えを満たしても、仏様は許してくださるであろう。それこそ「供養」というものだ。
ただ、そのために彼らが「盗み」を働かなくてもいいように、千代田区はよい方法を考えることだ。「窃盗に値する」など冷たいことを言わないで……。
(記者:堀 素子)
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