2008年06月21日(土) 14時27分
親、テレビ、誇示、ゲーム感覚、苦境…秋葉原通り魔事件 識者はこう見る(上)(産経新聞)
東京・秋葉原の無差別殺傷事件で逮捕された加藤智大(ともひろ)容疑者(25)は、犯行動機から事件の契機、いざ事件に向かう“実況中継”まで携帯サイトの掲示板に書き込んでいた。加藤容疑者の行動と心理は特異なものなのか。それとも、暴走する他の若者と同じなのか。また、再び悲劇を発生させない秘策はあるのだろうか。
【上智大学の福島章名誉教授(精神医学)】親の背を見ず、テレビを見る世代の弊害。ワイドショーに出て英雄気取りの勘違い犯行だ
彼の場合は、インターネットに依存をしたから犯行に及んだわけではなく、孤独で受け止めてくれる人がいなかったから、ネットに依存せざるを得なかったということだろう。
自分の思っていることを何でも書き続けているが、まるで独り言のようだ。歪んだ心境を語っても、誰も軌道修正をしてくれない。誰かに相談できればよかったのだが。
もともとの性格の問題もあって、ネットに逃げ込んでしまったのだろうが、彼は派遣社員だった。相談できる上司もいなければ、同僚もいない。ずいぶんと孤独だったのだろうと思う。
ネットにより攻撃性が高まるかと聞かれれば、この場合はノー。ネットは匿名性が高いから、モラルが下がって、攻撃的な発言が増えるというのはある。たとえば西鉄バスジャック事件を起こした少年は、掲示板のやりとりの中で、次第にあおられて犯行に及んだ。
だが、彼の場合は、ネットでも誰も相手にしてくれなかった。反応のないまま、単なる独り言のように書き込みをしているだけだ。書き込みをしていなかったら、あの犯罪がなかったのかと思えば、それはないだろう。
携帯サイトは彼にとって「はけ口」ではあったが、気持ちをすっきりさせるほどではなかった。
通り魔とは都会でのみ起こりうる「都市的犯罪」だ。名前も分からない人が大勢いて、初めて「無差別の殺人」が成立する。
田舎であれば、みんな知り合いで、殺す方としても対象が誰か分かって殺すわけだから、無差別というのは起こりえない。
ここでいう「都会的」な状況というのは何も地理的なことに限ったわけではなく、最近では会社でも工場でも、極めて都会的な状況が起きている。物理的にはたくさんの人がいるが、精神的にはバラバラ。互いに誰かも知らず、会話もないという状況が往々にして起きている。お互い人間関係が非常に遠くなっている。
こうした都会的な環境のなか、コミュニケーションをとろうと思って、ツールのみが発達したが、ネットにしても携帯電話にしても、実際の距離はかなり遠い。人対人の接触がとぼしくなる。解決にはコミュニティーを再建するなどしかないのが難しいところだ。
彼は自分のロッカーにつなぎがないなどという些細なトラブルを「いじめだ」「解雇する気では」などと被害妄想的に受け止め、自分の人生に絶望した。社会に対する憎しみを募らせて無差別殺人に及んだ。
もともと人付き合いがなく、身近に憎んだり、愛したりする対象者がいなかったものだから、無関係な人に八つ当たりをするしかなかったのだろう。
彼には自殺願望があったのかもしれない。人生に絶望して、死んでしまうと思い、その前に大きな事件を起こして注目を集め、自分の存在確認をしようとした。
警察官に拳銃を向けられ、刃物を落として座り込んだが、人間には本能というものがある。死にたいとは言っても、いざとなると躊躇が生まれる。
大阪教育大付属池田小事件の犯人だって、何度も自殺をしようとして、山中に行って、首に縄を付けたが中止して戻ってきたりしている。
とにかく彼には身近に彼のことを心配し、見守ってくれる人がいなかった。普通は家族や会社の同僚、友人、今では学校にカウンセラーまでいるが、彼は派遣という立場だった。会社は自分のところの社員であれば健康状態も気にするが、派遣だから彼の病的な部分に気づかれず、ケアすべきところをケアされなかった。まるで工場の部品のひとつのように扱われ、そういう状況が人間不信を助長した可能性はある。
普通は通り魔というのは30〜40代に多かった。仕事とか家族のこととかで限界が見えてきた人が起こすのが普通だったが、25歳は早すぎる。
こらえ性がなくなったというか、我慢がなくなったというか。見切りを付けるのが、昔に比べて早くなった。
子供のころからテレビをみて、ゲームをやって、人間関係が鍛えられなかったから、すぐに傷ついてヤケになる。
今の子供は親の背中じゃなくて、テレビを見て育つ。テレビに出ることが価値のあることと信じているから、大きな事件を起こせばワイドショーに出られて英雄になれるとどこかで勘違いしている。
私の亡くなった友人が20年も前に「対人恐怖性機械親和症」という言葉を造った。まさにいまはそんな時代になった。
機械によるバーチャルの影響も大きいと思う。たとえば、今回の凶器になったダガーナイフ。あれはゲームでよく出てくるらしいが、バーチャルの世界で慣れ親しんだものであるから、それを現実世界で実際に手にすることについても、大人に比べてハードルが下がってきているのだと思う。私なんかは怖いという印象が先に立つが、そうではないんだと思う。
新しい技術が開発されたりして生活に変化が起きた場合、その影響が出てくるのは、その世代ではなく、その世代が親になって育てられた子供の世代になって、初めて影響というのが出てくる。
これまでの例でいうと、たとえば「男女平等」。男女平等と言い始めてから、女性の犯罪がすぐに増えたかといえばそうでもない。
その世代に育った子が、親になって子育てをし、その子供が大きくなってか
ら、初めて20〜25%と増えてくるようになった。
今はテレビ世代、これからはゲーム世代の子供たちが登場する時代。社会がどうなるか若干の心配が残る。
【聖学院大の作田明客員教授】優等生から転落… 『もう一度自分の存在に気づいて』と誇示の犯行
家族の問題もあったかもしれないが、自己愛が強すぎるという、もともとの性質の問題もあるだろう。
茨城県土浦市の8人殺傷事件で逮捕された男(24)も同じかもしれない。高校時代は優秀で評価されていたのが、社会へ出てうまくいかなくなると「すべて他人のせいだ」と社会を恨むようになる。
そうした心理の中で孤立、孤独が深まって行き味方はいなくなる。「もう前のような人生はやり直せない」と悟る一方、世間にもう一度、「自分の存在を知らしめたい」「大きなことを残したい」と考えるようになる。その最後の手段が悪いことをすること。特定の人がいやだというわけではないため、このタイプの人間は、無差別な犯罪によってその目的を果たすパターンが多い。
携帯電話の掲示板に書き込みをしているのは、犯行を誇示したい心理だ。特定の人を相手にしているわけではない。そういう人がいたのかもしれないが、誇示が目的なことに変わりはないだろう。
対策は極めて難しい。今は若い人が結婚できず、派遣仕事ばかりで経済格差が広がっている。社会の仕組みがすぐに変わるはずはなく、抜本的な対策というものは難しい。
【関西学院大の野田正彰教授(精神病理学)】『死ぬならこんな社会を破滅させよう』 ゲームの延長線上に近い電源オフ的犯行
無差別殺傷事件が目立ち始めたのは2000年代に入ったころだ。欺瞞的社会への不安を募らせ、「どうせこんな社会でうまい汁が吸えないなら死んだ方がまし」と自殺に及ぶ若者が増える一方、「死ぬならこんな社会を破滅させて死んでやろう」と、自らだけでなく、他者にまで攻撃性が及ぶ、道連れ型の犯罪が目立ち始めた。
「自分が消えるなら、この社会も消せばいい」という考え方で、いわばゲームの延長に近い。電源をオフにするような感覚だ。
ただ、彼が消そうとした社会というのかいかに貧弱なことか。彼にとっての社会は「アキハバラの群衆」でしかなかったということだ。
彼は犯行の直前、携帯サイトに「いい人を演じるのには慣れている みんな簡単にだまされる」「大人には評判の良い子だった 大人には」などと書き込んでいる。
これは自らの人生や社会との「決別」を意味している。彼は高校時代、青森の進学高に通う“優等生”だった。欺瞞的社会に生きていた自分を否定し、決別した上で8日、アキハバラの路上で、「時間です」と凶行に及んだ。
ただ、そうした決別の瞬間にあっても、彼は「全員一斉送信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っていることが、少し嬉しかった」と携帯サイトに書き記している。
ここで唯一、社会とのつながりについて触れ、それを「うれしかった」と書いている。
この喜びをもっと拡大させることができれば、彼を救うことができたのかもしれない。
彼の犯行後のマスコミの報道はむしろ、犯罪予備軍に対し絶望を与えることしかしていない。町村官房長官が刃物がどうとか言っていたが、場当たり的に「刃物を規制する」なんてテロ対策のようなことをやっても何の解決にもならない。
それこそ、彼らが嫌悪する欺瞞的な対応の最たるもので、彼らにとってみれば「やぶってやるぞ」と挑発をされているようなものだ。
格差社会も欺瞞の象徴だ。派遣社員として、正社員と同じ仕事をしながら、3年もすれば首を切られる。
「こんなことやっていても先が見えない」と考えた場合にとれる選択肢は「おれの人生はこんなもんだ」といってのらりくらりと生きるか、「いやだ」といって死ぬかというぐらいのものだ。「どんなにやっても上に上がれないのだったら、いっそのこと消えてやる」と考え、社会を道連れにしようと考えても疑問はない。
【龍谷大の脇田滋教授】無権利、孤独… 派遣労働者の苦境が生んだゆがんだ心理からの犯行
歪んだ犯罪に走った犯人を正当化するわけではない。だが、今回の犯行に犯人の仕事の環境は大きく影響していると思う。
日本の派遣労働者の現状の厳しさは、4つのキーワードがある。1つは、いつクビを切られるか分からない「雇用の不安」。2つめは、最低賃金ギリギリだったり、正社員に比べて各種手当てもつかない「差別」。3つめは正社員に名前も覚えてもらえなかったり、同じ派遣の人たちが仲間として受け入れてくれない、つまり人として対応してもらえないという「孤立」。4つめは仕事の提案をしたり、年休など権利に定められた休みを取ったりすると、生意気だと正社員にクビにされたり損害をこうむる「無権利」だ。
特に3つ目の「孤立」は深刻だ。いくつもの業者が派遣元になっている職場では、雇用した企業がそれぞれを競わせる傾向がある。「使い勝手のいい」人間を選別し、残りを切るためだ。賃金も派遣元によって異なるため、「よその派遣の人間としゃべるな」と厳命されている場合もある。違反するとクビや契約更新されないとういう恐怖心もあって、派遣同士の横の連帯は生まれない。一般の会社なら家族的だったり、同期、部署、といった中で連帯感もあるが、それも皆無だ。
さらに、派遣業者がうたっている賃金も表向きで、何かにつけて天引きされ、実際にもらえるのは5、6割だ。今回の犯行を肯定しないが、これだけひどい状況では、歪んだ心理になるのは必然といえる。悲観して自殺する人も含め、こうした話を聞くとたまらない思いだ。働けば働くほどばかばかしくなり、頑張ることなどできない。若者は将来の希望がもてるはずはない。社員への可能性があったり、希望のもてる環境なら、犯人の心理も違ったかもしれない。
90年代から急速にこうした派遣業態は増えた。そして、企業側もモラルが崩壊し、「同一労働 差別待遇」という悪しき慣習の中で利益を上げてきた。労働組合もこうした差別的環境で働く派遣労働者を「無視」しており、ある意味企業と共犯だ。行政もこうした実態を知っていながら黙認している。若い人をみんなでいじめている状態だ。経済的に安定している若者が減ると、少子化に拍車がかかるなど弊害は大きい。日本の派遣制度は、世界の恥だ。
まずは企業が社会的責任を取り戻し、こうした単純労働などの派遣部門を極限までに抑えることが必要。そして、正社員と同等の待遇を設けたうえで、「何カ月働けば正社員」というルールを明確に作るべきだ。労働組合も手をさしのべるべき。派遣労働者が企業を支える根幹なのだから、その根幹がいつかくずれたら、その企業は崩壊する。また、派遣会社の情報もいい情報だらけで、実態を反映していない。初めて働く若者は、インターネットの掲示板以外は、情報のチャンネルがほとんどないはずだ。安易にお金が稼げるように見える派遣の実態について、学校や行政は何らかの対応をしなければならない。
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