2008年06月12日(木) 21時01分
「あの地震」から30年、仙台で大規模防災訓練(オーマイニュース)
1978(昭和53)年6月12日、マグニチュード7.4の大地震が宮城県を襲い、大きな被害をもたらした。宮城県沖地震である。その翌年、仙台市は6月12日を「市民防災の日」と定め、毎年その日には比較的大規模な防災訓練が行われている。
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宮城県沖地震からちょうど30年の節目を迎える本年の防災の日にも、仙台で防災訓練が実施された。私はその中の1つである、青葉区の防災訓練に足を運んだ。
ここでは主に仙台市立町地区の町内会が中心となり、仙台市消防局や消防団の協力の下、立町小学校と宮城県スポーツセンター跡地(いずれも青葉区)で執り行われた。私は東北大学大学院工学研究科付属災害制御研究センター(DCRC:Disaster Control Research Center)のスタッフとしてパネル展示(後述)の設営にかかわっていたが、同じ会場で行われている訓練を見て回った。
また、文部科学省の地震調査研究推進本部による長期評価(2000年発表)では、今後30年以内に宮城県沖でマグニチュード7.5程度の地震が起こる確率は99%、 10年以内でも60%とされている。さらに、過去の文献調査などにより、1978年に起こった、あるいは今後確実に起こると想定されている宮城県沖地震と同程度の地震はおよそ37年周期で起こると結論づけられており、1978年の宮城県沖地震から30年たった今、市民の地震災害に対する意識は高まっている。
救助訓練のメイン会場となるスポーツセンター跡地では、救助訓練をはじめ、災害発生時に活躍する人やものの展示、および災害を疑似的に体験する設備などが出そろっていた。陸上自衛隊による災害救助用の炊飯車両や、本格的な医療設備を取りそろえた緊急車両が強い存在感を示すその前で、婦人防火クラブによる災害時非常食(炊き込みご飯)の振る舞いが行われており、見学に来ていた地域住民や小学生などはおいしそうに口にしていた。また、仙台市の地震体験車両である「ぐらら」や濃い煙の中を体験するテントの前にも長蛇の列ができているなど、来場者の地震防災に関する関心の高さをうかがわせる一面もあった。
他方でそれほど人気を博さなかったのが、このような華々しい訓練の近くで行われていた、防災関連機関や研究団体などのパネル展示であった。防災訓練が地震災害が発生する直後のことを取り扱っていたのに対し、こちらの展示は主として災害が起こる前のことを取り扱っている。内容は、宮城県沖地震や阪神・淡路大震災、新潟県中越地震などの被害写真や、緊急時に備えておくものの展示などである。われわれDCRCのテントでは、自治体と県内の大学や企業が連携して行ったプロジェクト(宮城県沖地震対策研究協議会)の展示や、緊急地震速報、ならびにそれを用いた小学校での避難訓練の取り組みの発表を展示した。
当初はこちら側の展示には、防災訓練が終了する11時45分以降に、防災訓練の観覧者が見に来ると予測されていた。だが思ったように人は来ず、展示は12時30分までと予定されていたのだが、12時10分ごろの段階で撤収してもいい、との運営側からの連絡があった。
もちろん、表で行われている訓練のような、地震が起こった直後、あるいは復旧に向けての対応も大事ではある。だがそれと同等(あるいはそれ以上)に、事前の災害対策も重要であると私は考える。例えば家屋をある程度補強していたり、あるいは家具の転倒防止対策をとっていたりすれば、対策していない状態では起こったかもしれないけがを未然に防ぐことができるからだ。だがわが国の災害対策は、特に個人に対してはいまだにぜい弱で、たとえ被害低減に関する努力目標を示したり、あるいは制度を作ったりしても、多くの人がそれにアクセスできないのである。
防災訓練の閉会式での講評で、梅原克彦・仙台市長は、災害対策は「備えあれば憂いなし」ではなく、備えがあっても憂いがある、と述べた。現実には、その通りというほかない。だが、憂いをできるだけ減らすための備えはできるはずだ。そのためにも、「自分の身は自分で守れ」といたずらに喧伝(けんでん)するのではなく、行政と住民、そして研究機関ができるだけ多くの人の被害を減らすという共通の目標の下、制度設計を行うべきであると考える。またわれわれのような研究機関や、自主防災組織なども、もっと事前の対策の重要さを考え、そして住民に対しアピールする必要があると感じた。
(記者:後藤 和智)
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