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2008年06月08日(日) 15時05分

ミナトヨコハマの「霧」はなぜ消えたのかオーマイニュース

 すっかり異国情緒を失い、単なるおしゃれな衛星都市になりさがってしまった横浜が、まだ港町らしかったころのことである。異国情緒を演出していたものがふたつあった。

 ひとつは遠い外国からやって来た大型外航船とその船員や船客。もうひとつは波止場に立ちこめる濃霧である。かつての横浜は、姉妹都市のサンフランシスコ同様、「霧の街」だったのだ。赤木圭一郎の“波止場もの”映画『霧笛が俺を呼んでいる』(1960年・日活)のラストシーンも、霧に煙る横浜港である。

 また『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』で知られる小説家・池波正太郎は、エッセイの中で何度も横浜の霧に言及している。

「そのころ(記者注:1913年ごろ)の横浜のエキゾチシズムを何と語ったらよいだろう。秋になると港には夜霧がたちこめ、その港の霧が弁天通りのあたりまでただよい、ペルシャ猫を抱いた異国の船員がパイプをふかしながら、霧の埠頭を歩いてきて、自分の船へあがっていくのを見て、わけもなく感傷に浸ったりしたものだ」(『横浜あちらこちら』より)

 池波正太郎のテキストからはほど遠く、現在は年間で5〜10件程度しか発生しない霧。なぜ発生しなくなったのだろうか。山手の丘に陣取る横浜地方気象台へ行き、解説付きのデータをいただいてきた。

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◆霧の原因は大気汚染?

 「霧日数」と題された表によると、かつて霧が多かったというのは間違いないようである。気象台で観測が始まったのは1897(明治30)年。このころはまだ発生数がすくなく、年に5〜10数件の間を上下しているだけだが、1916(大正2)年から急速に霧の発生件数が増加。その後、1953年ごろまでコンスタントに年30〜40件発生するまでになった。特に1922(大正11)、1927(昭和2)、1935(昭和10)、1936(昭和11)年は60件以上発生し、1944年にいたっては、なんと86件も発生している。

 霧発生日の急増は、何が原因だったのだろう。データに付属した解説によれば、原因のひとつは大気汚染だという。本来は「もや」として観測されるべきものが、大気汚染による視認性の悪化により「霧」となってしまったのだ(霧とは目視による視野が1キロメートル未満の状態を指す。1キロメートル以上であればもやとして区別される。また地面に接していない状態であれば、雲として観察される)。つまり「横浜のエキゾチシズム」を生み出していたのは、公害だったのである。

 当時の大気汚染はかなり深刻だったらしく、秋から初冬にかけてスモッグが頻繁に発生。進駐軍兵士の間で「横浜ゼンソク」と呼ばれる発作が見られ、問題視された。しかし1951(昭和26)年に「神奈川県事業場公害防止条例」が制定されると徐々に大気がきれいになり、霧の発生も減った。公害が解消された結果、港の情緒が薄れたのだ。なんとも皮肉である。

◆温暖化も引き金に

 もうひとつの原因は、気温の上昇だという。

 霧は地面や海面が暖かく、冷えた空気との温度差が大きいときに発生する。気温が上昇し相対的に湿度が低下すると、霧の発生日数は減少するのだ。現在は年間で5〜10件程度しか発生しない横浜の霧だが、このまま地球温暖化が進行すると、その発生は一層まれになってしまうだろう。

 池波正太郎が書き残したように、戦前・戦中の霧は、秋から冬にかけて多発した。しかし現在は大きく様相が異なっている。年間で5〜10件程度しか発生しないのだ。

 1965(昭和40)年から1995(平成7)年までの30年間の統計によれば、霧の発生は春から梅雨にかけての期間が多いという。特に6、7月は顕著でこの2カ月間の発生率は年間総数の3割に及ぶ。時代の変化は気象にまで及んでいるのだ。

 なお横浜地方気象台では、1996年以降の霧の発生データを一般に公開していない。

(記者:檀原 照和)

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