三鷹駅南口から2分歩いた。太宰が編集者との打ち合わせに使った「うなぎ若松屋」があったといわれる場所だ。山吹色の看板は、末尾の2文字だけが残っている。「松屋」。えっ、松屋? そう。牛めしチェーンの三鷹南口店になっていた。
駅北口にある松屋本社に尋ねると「え、太宰と何か関係があるんですか」。社内でも、開店の経緯を知る人はないという。南口店で牛めしをかっこむ若者の、誰も太宰など思うまい。
再び、南口から5分歩く。今年3月にできた「太宰治文学サロン」に着いた。ここは、かつて太宰行きつけの「伊勢元酒店」だった。2年前に店を畳んだ奥谷昭二さん(70)が、太宰の姿をおぼろげに覚えていた。小学生のころ店の端っこで勉強していると、ふらりと店に現れた。
「あのころ着物姿の人は少なかったからね。ウイスキーの瓶をひょいとつかんで着物のたもとの中に入れてしまう。変なおじさんだなあと思っていたよ」
たもとの酒のお代はちゃんと払っていたのだろうか。「貸しはたくさんあったみたいだけれど……」と、奥谷さんは苦笑いをした。
すし屋のテーブルでたばこをもみ消す。酔って歩く。ツケをためる。評判のいいはずがない。とどめは愛人との入水心中だった。太宰が眠る「禅林寺」は今でこそ観光名所だが、墓所に定める際は、檀家(だんか)の猛烈な反対を、慈悲深い当時の住職が説得した。
逆に「うちにとっては、いいお客さんでした」と話すのは、今も営業を続ける「三鷹薬局」の星野隆史さん(65)。何でも毎週、高価な胃腸薬やビタミン剤を買いに現れていたと先代が語っていた。
「きっと酒の飲み過ぎで、胃が荒れていたのでしょう。当時は戦後の食糧難。そんな中で酒を飲んでふらふら歩いているのだから、街での評判はよくなかったですね」。三鷹に太宰サロンができるまで、60年を要したのも、むべなるかな。
芳しくない記憶が薄れるまでの間に、三鷹は一変した。「旧太宰邸」は約30年前に、最後の仕事場となった「野川家」は99年に建て替えられて跡形もない。足繁(しげ)く通った小料理屋「千草」は商業ビルに。その前に据えられた金属板だけが、ゆかりの地だと申し訳なさそうに告白している。
だが、当時の面影を残している場所があった。三鷹駅西側にある中央線をまたぐ陸橋。太宰は武蔵野を一望できるこの橋を愛し、友人をわざわざ案内することもあった。橋上の太宰の写真はあまりにも有名だ。
いま、高架化の進む中央線を上から見下ろせる橋は少ない。ここでは子供が手を振ると運転士が警笛で応える。黄昏(たそがれ)時には、沈む夕日を眺めに、近所の人が続々と集まってくる。ぼんやりと物思いにふける若者や子連れの夫婦、通りがかりでふと足を止める人——。
「毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている」。太宰が「東京八景」に記した風景は変わっていない。