数字や言葉がわかり、「天才」と呼ばれるチンパンジーのアイが、京都大学霊長類研究所(愛知県犬山市)に来てから30年。松沢哲郎教授ら研究者や、息子のアユムとともに毎日勉強する姿から、ヒトの認知能力や心の発達を探る鍵も見えてきた。アイの気持ちになって研究の歩みを振り返った。
チンパンジーのアイ=愛知県犬山市の京都大学霊長類研究所、松谷常弘撮影 5歳のときのアイ=京都大学霊長類研究所提供 アユムに授乳するアイ=03年ごろ、京都大学霊長類研究所提供 タッチパネルで記憶力をみる実験。0.2秒で数字は白い四角に変わる。それでも、アユムは各数字の位置をちゃんと記憶している=京都大学霊長類研究所提供 アイとアユムの描いた絵の一枚。チンパンジーたちは絵を描くのが大好き=京都大学霊長類研究所提供 手の届かない管の中にあるジュースに葉っぱを浸して飲む。「道具利用」の実例だ=京都大学霊長類研究所提供1977年11月、西アフリカの森から研究所にやってきた。まだ1歳。病気がないかどうか調べるって、最初は窓のない地下室にいた……。
「鉄の扉を開けると、小さなチンパンジーがぽつんと木製の台の上に座っていた。私が目を見ると、彼女は私を見つめ返した。ニホンザルなら威嚇の行動だけど、これは違うと驚いた」(松沢教授=当時、心理部門の助手)
アキラとマリっていう同い年のチンパンジーも来た。78年4月、「勉強」が始まった。勉強部屋に1カ所ピカピカ光るところがあった。面白いから押してみたら、チャイムが鳴ってリンゴのかけらがでてきた。
「自分から、勉強をするように仕掛けを作った。強制はしない。私たちに伝わる『言葉』を教えるのが最初の目的。だんだん、チンパンジーの見ている世界をまるごと知りたくなった」(松沢教授)
靴やコップを見て、対応する図形文字を選ぶ。キーを押して組み合わせが当たるとホロホロホロってチャイムが鳴ってリンゴが出てくる。間違えるとブブーッていうブザーだけ。数字や色も覚えた。ついつい一生懸命になってしまう。マリやアキラもするけれど、興味は違うみたい……。
「同じ間違いを繰り返さないアイ、間違えるとやる気を失うマリ、ブブーッと鳴ってもへこたれないアキラ……。反応は三者三様。アイは同じ課題でも半分の時間で済むから『天才』といわれるけど、マリはみんなと仲良くするのが上手で子どもをたくさん産んだ。アキラはけんかが強い。みんな能力は偉大で個性があるんです」(松沢教授)
99年夏、妊娠した。「人工授精」なんだって。おなかが大きくなる間、ぬいぐるみで抱き方を知った。翌年4月24日、おなかが痛くなってアユムが生まれた。最初は息をしてなかった。赤ちゃんを抱いて一生懸命口や鼻を吸った。そしたら泣き出した。
「母を知らないアイが母親を務めた。とっさの行動は感動的だった」(出産を見届けた獣医師の道家千聡さん)
アユムをいつも抱いていた。目と目で見つめ合う……。アユムったら赤ちゃんの時から私の顔と他の顔の区別ができたみたい。勉強の時も一緒にいたら10カ月の時、色と漢字を合わせる問題をたまたま正解した。8歳の今、数字の記憶力は私よりすごい。
「人の子どもの発達と比較する研究に発展させたい。楽しみです」(林美里助教)
「彼らができることは、私たちができたりできなかったり。そうした事例を重ねた30年の研究の結果、『チンパンジーの心の世界からヒトを見る』という新たな分野が始まっている」(松沢教授)
◆ヒトの知性のルーツ解く鍵
30年前に霊長研にやってきたアイ、その息子のアユムらが、数の順や大小、計数百もの図形と色などを認識し、優れた記憶力を持つことは有名だ。加えて、個性を生む心の進化、子どもの発達を見守る教育など、ヒト独特と考えられていた能力さえ持っていることが明らかになっている。
チンパンジーは、DNAで1.23%の違いしかないヒトに最も近い霊長類。ヒトが森の中に住んでいた太古の姿を映す鏡だ。アユムは、短期記憶力ではヒトより優れた面も持つ。ヒトは言語を得た代わりに、そのような力を失ったのだと考える学者もいる。
次の世代が生まれれば、仲間同士の関係を築き、社会の成立にどう向かっていくか、そんな研究に発展する。ヒトが知性を育て文化を生んだ謎にも迫る可能性がある。(藤浦大輔、内村直之)