太平洋戦争中、米潜水艦に撃沈され、約1500人が亡くなった学童疎開船「対馬丸」を題材にした映画「銀の鈴」の撮影が関西各地で進んでいる。大阪のアマチュア劇団代表で、会社員の斎藤勝さん(49)が知人らに呼びかけて映画化に乗りだし、スタッフの多くが手弁当で手伝っている。「絶望の中でも生きようとする命の躍動感を伝えたい」。来年の公開を目指している。
映画「銀の鈴」の撮影で役者らに指示を出す斎藤勝さん(手前右)=17日午前、大阪市中央区の大阪城公園、川村直子撮影17日朝、大阪市中央区の旧大阪市立博物館の前で、軍服の兵士が行き交う様子をカメラが追った。陸軍第4師団司令部だった博物館を「軍本部」に見立てた撮影だ。監督の斎藤さんの声が響く。「今のシーン、別の角度から撮るのでもう1回いきます」。予算が少なく、後で撮り直せないため、念入りに同じシーンを何度も撮っていく。
サイパンが陥落した44年、予想される沖縄戦を前に政府は沖縄の学童の集団疎開を決定。対馬丸は1788人を乗せ、那覇から疎開先の九州に向かう途中の44年8月22日、東シナ海で魚雷を撃ち込まれ沈没した。死者は約1500人にのぼったが、旧軍は事実を隠し続け、明らかになったのは敗戦後だ。
映画は、対馬丸へ子どもたちを乗せて沖縄に残った教師や、奇跡的に助かった少女、自分の子どもを対馬丸に乗せた軍人などがその後も戦争にほんろうされていく姿を描いている。エピソードはフィクションだが、生存者の証言を基につくった。
劇団ARK(大阪府門真市)の代表を務める斎藤さんは95年、叔父が乗船し、九州・門司から上海に向かう途中で沈没した兵員輸送船を題材に劇をつくった。この輸送船を調べるうち、一緒に上海に向かった2隻の船が門司に来る前、対馬丸の僚船だったことを知った。その後、対馬丸を調べて脚本を書き、物語のかぎを握る銀の鈴をタイトルにした。
この劇を00年から07年までに3回上演。2回目の上演前に、沖縄に住む生存者の女性(77)から当時の様子を聞き取りした際、「対馬丸事件を風化させたくない。『ひめゆり』のように、何とか映像で残して欲しい」と言われ、映画化を思いたった。
今年2月から撮影がスタート。資金が乏しいため、役者の卵や知人の劇団員らがほとんど交通費の実費だけで出演。カメラも知人のフリーカメラマンの友人に頼んだ。滋賀県内の古い校舎、大阪府交野市の山中などで撮影を続け、これまでに7割のシーンを撮り終えている。
斎藤さんは「対馬丸を単なる悲劇とするのではなく、絶望から希望へと前進する子どもたちの姿を伝えたい。そして、今を生きる私たちが、命の大切さを考えることが亡くなった方への弔いだと思う」と話す。映画や協賛の問い合わせは同製作委員会(072・883・7941)。