記事登録
2008年04月28日(月) 02時03分

<聖火リレー>「いつから世界はこんな組み立てになったのだろう」オーマイニュース

 市川崑が、黒澤明にかわってメガフォンを取った記録映画『東京オリンピック』制作にスタッフとして招聘された詩人・谷川俊太郎は、後年、オリンピックを題材にした「祭 olynpiad 1964」を未完詩集の一篇として発表し、次のように歌った。

言葉にならぬどよめきに
いま人間の心はひとつになる
若者たちは戦うだろう
武器なく
憎しみなく
しかも彼等は戦うだろう
ひたむきに
なおもおおらかに
(「祈らなくていいのか 未完詩集」『谷川俊太郎詩集(日本の詩人17)』河出書房1968年所収)

 なんの屈折もない、誠に素朴な讃歌であるが、これを書いた谷川氏の参加した『東京オリンピック』は、完成後、時のオリンピック担当大臣であった河野一郎の発言をきっかけにして「芸術か記録か」で物議をかもすことになった。物議の詳細は他に譲るが、そのように、オリンピックとなると、記録映画にさえ「政治」が介入するというようなことは、現代にあってもはや自明のことである。

 ヒトラー時代のベルリン開催(1936年)や、最悪の悲劇と言われ続けている1972年のミュンヘン。近いところでは、西側がボイコットした1980年のモスクワ大会と、それを受けて東側不参加となった1984年ロサンゼルス大会。ことほどさように、今日のオリンピックが政治と無関係とは誰も思いはしない。

 しかし、このたびの聖火リレーのような有り様を、現実そのものとして目の当たりにすると、「スポーツの祭典」などという呼称は、もはや死語でしかないのかなと思わざるを得ない。

 1996年のアトランタ大会に触れて、加藤周一氏はこう書いている。

 オリンピックは現代世界の鏡になった。世界には世界自身の鮮やかなイメージが残るだろう。政治家やスポンサー、カネだけが問題なのは、何もスポーツ興行にかぎったことではない。爆弾が、あるいは毒ガスが、罪のない多数の市民を無差別に殺傷するのはアトランタの公園においてだけではない。操作された「ナショナリズム」が集団ヒステリーに近づく過程、事件を TVが報道するのではなくTVが事件のリズムを決定する状況、また殊にもっと速く走りもっと高く飛びたいという単純で激しい情熱、そこから生じる競争、競争のための効率主義、そういうことのすべては競技場にだけあるのではない。

 たしかに、クーベルタン男爵の夢は消えた。
(『夕陽妄語』164頁、朝日新聞社1997年)

 そうと分かっていても、世界中の多くの人は、なお、どこかで夢を諦めてはいないと思いたい。

 2000年のシドニー大会を取材して、すぐれたルポとなった『Sydney!』(文藝春秋社刊)を著した村上春樹氏は、オリンピックは退屈だと、感想を述べながら次のように続けた。

 ベートーヴェンは(たぶん)髪をかきむしりながら「苦悩を通して歓喜を」と叫んだわけだけれど、それは遙か昔、血湧き肉躍る、ロマン時代の話である。英雄や、悪漢さえもが長い単語を使って思索した時代の話である。そのような日々はとうに過ぎてしまった。今となっては、「退屈さを通して感銘(のようなもの)を」、というあたりが、僕らが現実的に手に入れることのできる、まっとうな部類の精神の高みではないか。そしてオリンピック・ゲームとは(少なくとも僕にとってのオリンピック・ゲームとはということだが)、そのような密度の高い退屈さの究極の祭典なのだ。
(同書349頁)

 村上氏をして、そのように思わせるに至った「心に深く突き刺さ」るほど印象深いものとなった大会の一場面は、キャシー・フリーマンの女子400メートル決勝だったそうだ。

 「小骨のようにオーストラリアという国家の喉元にひっかかっていた」(同書281頁)アポリジニー問題。長くなるので説明や引用は省略するが、その象徴的存在として、キャシー・フリーマンは注目され、優勝した。歓声渦巻く中、トラックで呆然とする彼女の下にオーストラリアとアポリジニー、2本の旗が投げ入れられ、それを手に取り裸足のまま彼女はウイニングランをゆっくりと開始する。

 同時に、彼女の中で何かが溶け始める。静かに、しかし確実に溶け始める。彼女はやっと手を大きく上にあげる。もう一度あげる。まだ笑みはこぼれない。顔はこわばったままだ。でもフェンスに沿って走っているうちに、小さな目盛りひとつづつ気持ちがほぐれていく。客席のいちばん前にいた家族と手を取り合い、抱擁する。知っている人々の温もりを受けて、やっと自分というものが戻ってくる。表情がゆるみ、穏やかな笑みが湧き水のようにしみ出してくる。彼女は両手をあげる。そして何かを叫ぶ。それだけキャシー・フリーマンが深く悩み、傷つき、迷いさまよっていたのだということが、僕らにも理解できる。彼女は誰よりも重い荷物を背中に背負っていたのだ。

 このシーンを見るためだけでも、今夜ここに来た価値はあったと思う。胸が熱くなった。人の心の中で、固くこわばっていた何かが溶けていくのがどういうことなのか、それをまぢかに目撃することができた。今回のオリンピックの中でも、もっとも美しく、もっともチャーミングな瞬間だった。
(同書242頁)

 何を、どう希望しても変化などない。そう考えるべきが現実的なのかもしれないが、この夏のオリンピックでも、何かが大きな契機となって、村上氏がシドニー大会で目撃し、胸打たれたような光景が現出しないとは言えないだろう。あらためて「スポーツの祭典」と喝采できるような、そのような夢の瞬間と出会えなければ、未来はただ嘆くばかりのもでしかないではないか。

 『東京オリンピック』の後、何度も市川崑との映画制作に関与することとなった谷川俊太郎氏は、昨年末、新詩集『私』(思潮社)を著し、76歳にしてなお「自我」を追求する姿勢を読者の前に顕示した。

 どの詩句も若々しく、ヴィビットな精神が横溢しているのだが、このたびの聖火リレー騒動に胸いためつつ、その詩集のページを繰り、最も重く響くのは「入眠」と題された一篇の次の一行である。

 「いつから世界はこんな組み立てになったのだろう」

 なるほど今の現実世界は、夜に「遠くで鴉が鳴」くのを聞くごとく「黒い空間がひろがっている」ようではある。しかし、眠りにつけば相変わることなく「この現実とは別次元に存在する」夢の世界が「マグマのように」やってくる。夢を見続けることで、新たに生まれるものがあるかも知れない。詩人のメッセージを信じて、かすかな希望に過ぎないとしても、4年に一度のこの夏のオリンピックで「何かが溶け」出すことを期待しようと思う。

その坩堝の中で夢うつつに
人種と宗教と制度と思想と幻想と
そんな何もかもをごった煮にして待つ
ひそかな産声を
(『私』39頁「入眠」思潮社)

(記者:石川 雅之)

【関連記事】
聖火リレーって一体何だ!?
「非」平和を象徴した聖火リレー
4.26長野聖火リレーを徹底取材ドキュメント
ニュース特集「世界が注目! 長野聖火リレー」
石川 雅之さんの他の記事を読む
【関連キーワード】
聖火リレー
オリンピック

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080428-00000000-omn-soci