2008年04月27日(日) 18時43分
裁判員制度を前にテレビ報道を危惧する(オーマイニュース)
2009(平成21)年5月21日、いよいよ「裁判員制度」が始まる。裁判がより身近なものとなり、国民の裁判に対する信頼を向上させることが主な狙いだ。
◆裁判員制度とは?
裁判員の選び方は次の通りだ。
まず、各地方裁判所ごとに、管内の市町村の選挙管理委員会がくじで選んで作成した名簿に基づき、翌年の裁判員候補者の名簿を作成する。その後、裁判員候補者名簿に記載されたことが該当者に通知される。また、客観的な辞退事由に該当しているかどうかなどをたずねる調査票が送付され、調査票を返送してもらい、明らかに裁判員になることができない人や、1年を通じて辞退事由が認められる人は、裁判所に呼ばれることはない。
裁判員に選任されたら、裁判官と一緒に公判に立ち会い、判決にまで関与することになる。証拠を認定し、有罪か無罪かを決め、また有罪ならばその量刑まで決める。判決の宣告がなされたら、裁判官としての役割は終了となる。
原則として子だくさんのお母さんも、漁に出かけるおじいちゃんも、資格取得に向けて勉強中のお兄さんも、多忙を極める小児科医も、選任の対象となる。みな日々の生活に一生懸命な中、慣れない仕事を任されることの身体的・精神的負担の大きさをまず考えていただきたい。
公判が始まると、膨大な量の証拠資料に目を通すこととなる。活字を読むことに慣れていない人間にとって、活字を長時間見続けることは苦痛とも言える。そうして家に帰ってテレビをつけると、自分が携わっている事件についてのニュースを目にすることもある。
◆テレビの影響を危惧
そうした中、22日に死刑宣告がなされた山口県光市母子殺害事件についてのテレビ報道を見て私が思ったのは、加害者側の事情に関する報道が、被害者側にたった報道の半分もなされていただろうか、ということだ。確かに被害者遺族の本村洋氏がメディアに訴え続けることによって犯罪被害者の権利拡大につながったという功績は大きい。しかし一方で、問題が多角的に報道されていただろうかという疑問が残る。
たとえば、専門家が分析する少年の生い立ちや形成された人格について。たとえば、21人もの弁護団が無期懲役を主張する理由について。たとえば、過去の判例との差異について……。
こうした事実も、報道はされていたかもしれない。しかし、繰り返し目にする「大弁護団に一人で立ち向かう被害者の夫」の姿を報じる大量のニュースの陰で、専門家による小難しい話は頭の隅に追いやられてはいなかったか。映像の力の大きさを感じずにはいられない。
大多数の人間にとって、テレビは一番身近な情報源であろう。日々の生活の中で新聞を読みこみ、インターネット等であらゆる角度から情報を検討するといった人間が日本中にどの位いるだろうか。
だから私は、裁判員制度についても危惧を覚えてしまうのだ。
たとえば今回の事件の場合、裁判員に選任された一市民が客観的に事件の証拠を検証し、加害者である元少年に対し、仮に「無期懲役」という自分なりの結論を出して家に帰ったとする。そんな時にテレビをつけ、目にするのが、涙ながらに死刑を訴える被害者の夫の姿ばかりだったとしたら……。
自分の判断が正しいかどうかが、「よく分からなく」なるのではないだろうか。だが、それでも決断は迫られる。1人の人間の一生を、生死を左右する極めて重大な決断だ。そうした場合に裁判員となった一市民が背負う精神的負担はいかばかりだろうか。
裁判員制度のスタートに向けて願うのは、テレビの持つ影響力の大きさを鑑みた上で、公正な判断材料が視聴者に提供されることだ。そして、裁判員に選定された市民の心のケアについても、十分に検討していただきたいと思う。
【記者注】裁判員制度については、最高裁判所のウェブサイトを参考にしました。
(記者:木下 知保)
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