東京タワーの一角にある似顔絵コーナー。1966年の開設時から、ここで40年以上にわたって絵筆を執ってきた人がいる。
漫画家平(たいら)二郎(本名・白石平二郎)(76)。
「子供を描く時は、目を大きくして愛らしく。女性は口元を優しくほほ笑ませて、美しく仕上げるんだよ」——。筆を走らせること10分足らず。目、鼻、口を描き、輪郭が浮かび上がるころには、どの顔も笑顔になる。いつも、色紙の隅に、スタンプを押してからサインする。「東京タワーにて」「平」。愛用のゴム印は使い込まれ、すっかり擦り切れた。
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鹿児島県入来町(現・薩摩川内市)で、農家の二男として生まれた。幼いころから漫画が好きで、ヒーローは「のらくろ」や「冒険ダン吉」。地面に木の枝で戦車や戦闘機を描いては消し、消しては描いた。
だが、本当の戦争は寒くひもじく、醜い。そう知らされたのは、1945年6月17日、2316人の死者を出した鹿児島空襲の体験からだった。校庭に掘った防空壕(ごう)の中で、ドン、ドンと次第に近づく爆発音に身を縮めた。数時間後、ようやく外に出て目にしたのは、雨の中、やけどで水ぶくれになった少女が母の姿を求めて歩き回る姿だった。
漫画の力で平和を訴えたい——。そう考えるようになった平は51年、漫画家を目指して上京する。夢は新聞で風刺漫画を描くことだったが、すぐ仕事が見つかるはずもない。食いつなぐために始めたのが似顔絵描きの流しだった。
新宿、池袋、新橋、五反田……。飲み屋で酔客に声をかけた。一晩100軒は回ったろうか。いい思い出ばかりではなかった。どの顔も、敗戦のショックと劣等感にゆがんでいた気がする。漫画家仲間からタワーの仕事に誘われたのは、そんな流しの生活に疲れたころだ。
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タワーに似顔絵コーナーが設置されたこの年、来場者は3000万人を突破。新たに一般開放された地上250メートルの特別展望台も人気を呼び、週末ともなればエレベーターに乗るにも2時間待ちが当たり前の時代だった。
眼下の景色に興奮する子ども、人いきれの中、疲れをにじませながらも満足そうな表情の家族連れ。これまで描いた顔は20万枚を超えるだろうか。
恋人と訪れたアメリカンスクールの女学生は、二人の似顔絵の間にハートマークを描くと青い目を潤ませて、男の子の唇にチュッとキスをした。幼い男の子を連れた若い母親は、完成した子どもの似顔絵を見た途端、泣き崩れた。かわいい笑顔を数年前に亡くした夫に見せたかったの、という。
似顔絵は一期一会だ。
昨年7月にタワーを訪れたイラストレーター小島弘行(37)とのそれも、忘れえぬ出会いの一つだ。
小島は黄ばんだ1枚の色紙を持っていた。描かれているのは、ふっくらとした幼児の顔だ。右下には「東京タワーにて」。左には「平」のサイン——。
似顔絵は75年2月11日、母親とともに訪れた4歳の小島を平が描いたものだった。母親が大田区の実家で保管してくれていたのだという。
「成長した僕を、もう一度描いてください」。平の胸に熱いものがこみ上げてきた。似顔絵は平にとって子どものようなもの。だが、描くそばから手元を旅立つのが運命だ。その一枚の消息を知ることができた。「大切にされていた」
再会した小島の顔が、しっかりと自分の人生を切り開いてきた「いい面構え」になっていたことも、無性にうれしかった。
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上京から56年。念願だった新聞の風刺漫画も担当するようになった。だが今の平には、似顔絵こそ平和を映すことのできる仕事だと思える。
「似顔絵を描いてもらいに来る人はたいてい、幸せな人。この40年余、タワーで無数の笑顔に出会えたことが私の財産なんだ」
人々の表情に浮かぶ平和を描き続けること。それが平の願いだ。
(敬称略、北浦義弘)
◆アトム アニメ大国の原点
昭和で最初のベストセラー漫画といえば、1930年代に講談社の「少年倶楽部」などの少年誌で連載された「のらくろ」「冒険ダン吉」「日の丸旗之助」など。漫画研究家の清水勲帝京平成大学教授によれば、「いずれも愛国心にあふれた主人公の登場などで、戦意高揚に利用された」という。
戦後を代表する漫画家には手塚治虫や赤塚不二夫などが挙げられる。「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」など質の高いストーリー漫画や「おそ松くん」「天才バカボン」などギャグ漫画の傑作が次々と登場し、こどもたちの人気を集めるようになった。
鉄腕アトムは1963年、国産初の連続テレビアニメとして放映され、日本がアニメ大国になる起点となった。現在では、漫画・アニメ産業は、ゲームやキャラクター商品の販売などを含めて市場規模は10兆円とも言われる。