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2007年10月06日(土) 14時26分

エリカ様騒動の行き着く先とは・・・ツカサネット新聞

ここ数日かなり賑やかである。件の騒動の発端は主演映画での舞台挨拶であるが、そこでの不機嫌な態度と「別に・・・」発言、映画の公式サイトのブログコメント欄へのブーイング殺到、コメント閉鎖、謝罪インタビューという流れである。まさか本人はこんな大騒ぎになるとは思ってもいなかったであろう。

さて、主演映画はロードショー公開され、公開1週目のランキングでは3位につけている。興行成績はどこまで伸びていくかは不明だが、今回取り上げたいのは彼女自身についてというより、映画への評価の話である。別段この騒ぎに興味があったわけではないのだが、肝心の映画はどうなのだろうと思い、ユーザーが自由にレビューをアップできるタイプの映画サイト数か所にアクセスしてみた。

案の定、映画『クローズド・ノート』に関するほとんどのレビュー場所は荒れている。映画を見ていないユーザーの書き込みが異常な数に膨れ上がっている感じだ。確かに彼女の態度は問題だったかもしれないが、映画はそれ自体で評価されるべきではないのだろうか等と考えながら、純粋に映画そのもののレビューを読みたいなあと探しつつ、しかし、このレビューの数々を読んでいく内に先ほどまでの考えが自分の中で少し変化してきた。

圧倒的に多いレビュー(というか意見)は「観る気がなくなった」というもの。そこに、先ほどの私と同様に「映画は、そのものの評価をされるべきである(この作品がどうかという意味ではなく)」というような反論。だが、気になったのはレビューアーの中には「件の騒動があったために、最初から好意的に鑑賞できない」というような概念を持ってしまった者もいるという事だ。

無論、余計なフィルターや先入観なしに楽しめれば、それは純粋な評価にも繋がるだろう。しかし、エンターテイメントビジネスの世界にそれはどれくらい有効なのだろうか? 人気の俳優が出ているからという理由だけで興行成績は良いが、内容は全くないといった作品は古今東西を問わずどこにでもある。しかしながら、ビジネスである以上、その結果は『勝ち』なのだ。資本主義とはそういうものだ。

「騒動が起きて、主演女優に反感を持った。だから、観る気がなくなった」
これは既に、観客を失っている。
「騒動が起きて、主演女優に反感を持った。だから、好意的な気持ちで観るつもりがない」
これは観客を失ったのではなく、その映画の評価のハードルを最初に下げてしまったということだ。

今回の騒動は、この両方を生んでしまった。映画は作品そのものだけでは成立しない。大勢の人間が携わり、その能力と時間とお金を費やし、チーム全体で作り上げていくものだ。そして、観客を集めるために様々なプロモート行い、ようやく上映されるのだ。その一連の中に何百人ものスタッフ(規模にもよるが)が拘わっている。たった1人の行いであっても、それがマイナス要因であれば影響は起きる。それが映画の顔ならば尚のこと。

今回、彼女が謝罪インタビューを急遽受けたのは、ファンだけでなく、そういうスタッフをも敵にまわしても問題ないのか? という自問の結果だと感じる。いや、出来ればそうであって欲しいという私の願望だ。どちらかにイイ顔をして、どちらかは平気で無視するという方法を取るヒトは芸能人でなくともごまんと存在する。画面のこちら側にいるファンだけでなく、共に働く者に対しても謝罪をする気持ちであったのだと信じたい。

なぜなら、私個人は彼女の美しさも気高い存在感もとてもステキだと思っていたので。


(記者:藤沢ひなた)

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