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2007年10月05日(金) 09時57分

2007年は“不律”の年か?ツカサネット新聞

女優・沢尻エリカが自身の主演映画の舞台挨拶で、「不機嫌」をさらけ出した揚句、ホームページで謝罪をするという事態を引き起こした。マスコミを始めとした世間の論調は、彼女の“女王様キャラ”を笑うかのように「あ〜、やっちゃたねぇ」といった論が大勢を占めた。

確かに彼女の態度は論外であり、彼女の映画を、舞台挨拶を観に金を払って入場してきた客の前に於いて取り得る態度とは到底言い難い。「諸悪の根源は私にある」とホームページで彼女は謝罪をしたが、確かにそうだとしても、もう少し視野を広げると別の光景が見えてこないだろうか。

彼女の舞台挨拶の前には、当然のことながら彼女のマネージャーや周囲の関係者が居たはずだ。事前に彼女の異変に少しでも対応をしていれば、この“醜態”は日の目をみることはなかったはずだ。ある関係者は「連日のPR活動の疲れが出たのだろう」と彼女を擁護する発言をしたようだが、とんでもない話だ。

彼女の立場は“プロ”なのである。疲れていようが、何があろうが彼女は客が望む姿で舞台の上に立つべきなのだ。もしそれが実現不可能な状態であれば、直前にでも登壇を止めるべきではなかったのか。芸能界(または芸能人の立場)は他の一般よりも「あるべき姿」がより明確であるはず。しかし、今回それが実現できなかった。周囲はなぜそれを“律することが”できなかったのか。

この問題は、時同じくして時津風部屋での事件にも当てはまりはしないか。入門した若手力士を集団で暴行、死に至らしめるという事態を引き起こした。親方はそれこそ“律するべき立場”であるにもかかわらず、それを放置した揚句、あろうことか隠滅を図ろうとしたというのだから聞いて呆れる。またその親方を聴取した相撲協会の北の海理事長は会見で、「親方は(暴行を)“止めた”と言っている」とこれまた“擁護”するような発言をしている。事件が起きている以上、それは“止めた内に入らない”ことを何故きちんと指摘できないのだろうか。こうもなると、どこのレベルで“律”というブレーキが利くのかが解らなくなる(朝青龍の件も言うに及ばずだ)。

そして今年を最も象徴する“律し切れなかった人物”と言えば、安倍晋三前首相だ。あまりにも前例のない辞任の仕方をしたために、もはや記憶が薄れてしまった感があるが、数々の閣僚の「問題」や「失言」を“擁護”し、先送りした結果、最終的に自分をも“律する”タイミングを失ってしまった。

芸能界から歴史ある角界、そして国家のトップに至るまで、これほどまでに不名誉なキーワードで語れてしまう2007年という年は、あまりにも悲しすぎないだろうか(自らの不正を客の消費志向の責任に転嫁した加工食品会社の社長を“輩出”したのも今年だ)。

人間は“弱い”生き物だ。放置すればどうしても自分や周囲に甘くなっていく(偉そうに論じてしまったが、かく言う私も“律する”ことについては日々、四苦八苦である)。しかし、意識をしてでも“律”しなければ、様々な場所でコントロール不能な事態が繰り広げられることになりはしないか。2007年がその“序章”でないことを切に願う。


(記者:飯塚 貴)

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