井植家の系図
●「誇り」が「古い体質の代名詞」に
「私は『井植』という姓を誇りに思ってきた。それが古い(経営)体質の代名詞のように受け取られ、痛恨の極みだ」
28日、大阪府守口市の三洋電機本社で開かれた社長交代の記者会見。井植社長は、100人を超す報道陣を前に、任期半ばで退く悔しさをにじませた。
三洋電機は終戦間もない47年、松下幸之助を支えてきた井植歳男氏が創業した。業績は順調に伸び、54年には東京証券取引所に上場。創業から成長期、井植家の存在は「求心力」となって三洋が成長する原動力となった。
だが、00年以降の低迷期になると、成長を支えたエンジンは逆回転を始める。市場は全世界に広がり、経営のスピードが求められる時代。株式公開後も歴代社長8人のうち現社長を含む6人が創業家出身者というモデルは、時代に合わなくなっていた。
一時はカリスマ経営者ともてはやされた現社長の実父で元会長、井植敏最高顧問。00年10月、敏氏ら創業家への求心力の低下を招く事態が起きた。太陽電池の出力偽装問題だ。
「社長一人の辞任で十分なのか」
「井植会長の責任をどう考えるのか」
当時社長だった近藤定男氏は記者会見で答えに窮した。近藤氏は引責辞任したが、事実上の経営トップである敏会長は留任、記者会見に姿を見せなかった。
「将来、長男の敏雅氏を社長にするため、(経営の実権を握る)会長を辞めるわけにはいかなかった」。三洋の幹部OBは当時の事情を明かす。社内では、近藤氏の退任劇はいまだに語りぐさになっているという。
業績の低迷期に社長に就任した敏雅氏は大規模な人員削減に踏み切らざるを得なかった。かつては「家族的経営」で知られた三洋の転機だった。
●ファミリービジネスの実態、「負の遺産」あちこちに
神戸市垂水区。明石海峡大橋を望む国道から、坂道を100メートルほど上った高台に、周囲を圧倒する広大な洋館がある。広さは約1万4000平方メートル。楼閣から井植家の出身地・淡路島を見渡せることから「望淡閣(ぼうたんかく)」と名付けられた歳男氏の元自宅だ。
広々とした芝生の庭の奥には純和風の茶室。三洋電機が海外からの客らを接待する「迎賓館」として年数回程度使われる。敏氏が社長だったころは、正月に社員を集めて新年会を開いたことも。OBの一人は「海外の映画の世界のような豪華さだった」と振り返る。
関係者によると、この豪邸は03年、1億円以上で敏氏から三洋に売却されたという。登記簿によると、69年に歳男氏から敏氏が相続した。
その後は、敏氏が所有したまま、半ば三洋の施設として使われていたが、03年に三洋の子会社・三洋エステートに売却され、05年には三洋電機本体が所有者となった。実態が変わらないまま、敏氏に巨額の資金が流れたことになる。
ファミリービジネスの中核は、井植家の資産管理会社「塩屋土地」(神戸市)だ。敏氏が筆頭株主、実弟の井植貞雄氏が社長で、三洋株を約2200万株保有する。同社や子会社は三洋に土地を賃貸したり、給食サービスを請け負ったりと三洋との結びつきが強い。
また、歳男氏が寄付した三洋株を原資に69年設立された「井植記念会」(同)は、年に一度、科学や国際交流などで功績のあった団体や個人に「井植文化賞」を授賞している。どちらも、三洋株の配当が頼りだ。
三洋は01年3月期から04年3月期決算で不適切な決算処理をしていたとして、自主訂正の作業を進めている。三洋関係者は「井植家への配当を継続するため、赤字で無配に転落することはできない雰囲気があった」とも明かす。
●脱創業家は可能か、カギは最高顧問
28日の取締役会で敏雅氏の退任が決まり、三洋の代表取締役は当面、三井住友銀行、大和証券SMBC、米ゴールドマン・サックス(GS)出身者の3人。生え抜きの新社長、佐野精一郎執行役員が代表取締役に選任されるのは今年6月だ。
金融機関が目指すのは経営効率を高め、早期の黒字化を確実にすることだ。そのためには、三洋に根を張る創業家とのしがらみを、どう整理するかも課題になる。
カギを握るのは、取締役に残る敏雅氏ではなく、最高顧問を辞任する敏氏。「メーンバンクの三井住友銀行は長年の関係から敏氏を粗末に扱えない」(関係者)とされるからだ。
敏氏は最高顧問の肩書だが、三洋本社の会長室だった部屋をそのまま使い、専用車で週1〜2回、出社するという。19日に辞任した野中ともよ前会長は活動が東京中心だったこともあり、三洋社内では敏氏が実質的な会長であり、三洋の「オーナー」であることに変わりない。
最高顧問を退く敏氏の環境、処遇はどう変わるのか。株主や取引先など社内外の関心は高く、新経営陣の対応が注目されている。
ただ、かつて敏氏の側近だった元役員にとって、会長の功績は過去のものになりつつある。「見栄えを良くしようとしただけの20年間だった。終わってみれば、何も残らなかった」