21日未明に肺炎で死去した相模原市の小川勇夫市長(76)は、合併による人口70万人の新市誕生や、在日米軍再編に伴う相模総合補給廠(しょう)の一部返還の実現など、大きな足跡を残してきた。病気のため4月30日付の辞職が決まっていたとはいえ、市関係者や市民の間には惜しむ声が広がる。市は宮崎泰男助役を職務代理者に任命した。
小川市長は2月16日夕、市議会本会議後に体調不良のため市内の北里大学病院に緊急入院した。その後も発熱が続くなど病状は一進一退し、8日に「体力の限界を感じた」と辞職届を提出した。11日の合併記念式典に車いすで出席したのが最後の公務となった。
親族によると、16日ごろから容体が悪化し、21日午前2時16分、妻の久枝さんら家族に見守られて息を引き取った。長男の浩司さんは「合併記念式典に出てほっとしたのでしょう。最後まで市政のことを気にかけていました」と話した。
小川市長は県議4期目の途中だった97年1月の市長選に出馬して当選。3期目の半ばだった。
03年から様々な曲折を乗り越えて、昨年3月に旧津久井、旧相模湖両町、11日に旧城山、旧藤野両町との2段階で広域合併を成立させ、合併特例法の適用期間の10年3月末までに政令指定都市に昇格する、と宣言したばかりだった。
在日米軍の再編をめぐっては、米軍基地の早期全面返還を主張。旧防衛庁や外務省などで基地を抱えた自治体の苦しみを積極的に訴えて、相模総合補給廠の約17ヘクタールの一部返還を実現させた。
今井満・市議会議長は「市長は2年前から体調を崩し、文字通り死を覚悟で市政を運営してきた。合併記念式典には、力を振り絞って出たのではないか」。
ともに合併を推進した八木大二郎・旧城山町長は「任期半ばの死は無念だったと思う。市長の念願だった政令指定都市の実現に向けて取り組みたい」と話した。
職務代理者の宮崎助役は「合併式典の際には、力強い調子で声をかけられており、全く信じられない。政令指定都市を目指す市にとって小川市長の逝去は痛恨の極みだ」とのコメントを出した。
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