戦局が厳しさを増すとともに、弟宮たちが意見を具申しようとする動きに、天皇は苦々しい思いを隠さない。
「秩父宮殿下、明日御対顔の御申入れあり。聖上『困つたな困つたな』と仰せらる」(39年5月11日)。日独の同盟に前向きな弟の訪問への当惑ぶりが伝わる。
45年4月18日には三笠宮の対面の申し出を受けたものの、天皇は「何を言はうとするのかな、皇族は責任なしに色々なことを言ふから困る」とこぼしている。
■「茶会中止を」
42年3月20日、天皇はシンガポールの博物館の標本を南方軍が献上するとのニュースについて「自分は文化施設を壊すことは面白くないと思ふ。一部自分の手許に寄(よこ)しても、それは其のものを生かす途ではない。現地に一括してあればこそ価値があるのである」と述べ、差し止めを命じた。
戦時下、自分の楽しみやぜいたくを気にする天皇の姿も目立つ。
41年7月8日、葉山御用邸で水泳した際、「時局柄、水泳しても宜(よろ)しきやとの御訊(おたず)ねあり」。
42年2月25日、内務大臣が米、石炭などの不足を奏上すると、天皇は小倉を呼んで「自分達の方も少しつめる必要はないか」と尋ねている。
44年4月8日、天皇誕生日の茶会について「漸次物資も窮屈となれる故、止めては如何」。同6月7日、赤坂離宮の正門や鉄柵(てっさく)の供出を提案。「書棚等の銅部品は何(ど)うかとの仰せあり」
■親心も素直に
2人の息子、皇太子(現天皇)と義宮(現常陸宮)を手元に置きたいとの親心が、率直に記されている。
39年12月5日、4歳の義宮を青山御所に移居させる方針が出された時のこと。「宮城を出ることになれば、東宮と一緒か」と問い、教育上、一緒は無理と説明されると、「同居になれぬ位(くらい)なら宮城の方がよくはないか」「宮城内に設備しては何故いかぬか」。「青山御所は大宮御所、秩父宮御殿に近か過る。そちらにおなじみになりはせぬか。淋しい」ともこぼしている。
さらに、別居を認めた後も「英国皇室に於ては宮中にて皇子傅育(ふいく)をしてゐるが、日本では何故出来ぬか」と、諦(あきら)めきれない様子だった。
■警報下の別れ
小倉は東京帝大を卒業後、財団法人東京市政調査会の研究員から宮内省に入った、いわば「外様」の侍従で、身近に仕えたのも6年ほどだった。しかし天皇、皇后とは気持ちの通じるものがあったようだ。
45年6月23日、侍従を退く小倉らを天皇、皇后は夕食に招いた。空襲警報下、小倉は天皇から直接聞いた最後の言葉を記した。「聖上には、自分の御生れ遊ばされてよりの御住居が、皆無くなつた、高輪、御誕生の青山御殿、霞関離宮、宮城と四つなくなつた。此処(ここ)だけ残つてゐる、と仰せあり」
http://www.asahi.com/national/update/0309/TKY200703090033.html